コモンロー批判文学としての『嵐が丘』 と夫婦同姓合憲最高裁決定に寄せて

『嵐が丘』の悲劇:結婚と法

『嵐が丘』の悲劇――ヒースクリフによる復讐劇は、彼の最愛の人・キャサリンの結婚から始まる。
なぜ、キャサリンは誰よりも大切なヒースクリフではなく、隣家の息子(言ってしまえばぽっと出の)エドガーと結婚したのだろうか?

『嵐が丘』最大の疑問を考えるとき、私たちは18世紀イギリスにおける家族法を知らなければいけない。当時の結婚がいまの結婚と同じものだと思ってはいけない。
婚姻は、集団の規範を束ねた法という装置が創出するシステムにすぎず、社会状況が変われば、また規範を作る者が変われば当然にその内実は変わる、はずである。

最近読み返して気付いたのだが、『嵐が丘』は壮大かつ緻密なコモンロー批判文学である。
その詳細な論評は、植松みどり「『嵐が丘』論 一遙かなる脱出への祈り一」(※1)がとにかく素晴らしいので読んでほしい。

私がここで言いたいのは、過去のシステムを知ってしまえば、翻って私たちの今を目に見えない形で縛っている規範、それを誰が何のために生みだし誰をどのように拘束しているのか、という疑問を避けることはできないということだ。

夫婦一体の誤算:キャサリンの場合

かつてイギリスの慣習法――コモンローにおいて、「夫婦は法律上一個の人格である」とみなされていた。

18世紀の法学者・ブラックストンは「英法釈義」においてこう述べる。

「婚姻によって、夫と妻は法律上一人となる。すなわち、夫人の存在又は法律上の存在そのものは、婚姻中停止されるか、または少なくとも夫のそれに吸収され、統合される。」
「そして婚姻中の妻の状態は、coverture(カヴァチャー)と呼ばれる。

この夫婦一体論は数世紀前から法律書の中に現れるほどの一大原則であったが、妻の無権利状態は「夫婦間の合意」に基づく「契約」であり、それは妻の利益になり妻を守るためのものだと解釈しなおし、定式化し、夫の保護下にあることは「イングランドの妻たちの最大の特権の一つ」とまで評したのがブラックストンである(※2)。

法律上の存在が吸収される、という擬制が意味するところは何だったのか。
端的に言えば、財産の管理処分権の剝奪である。

19世紀イギリスの法学者・ダイシー曰く、

「婚姻というものは、とにかくcovertureの間、妻の財産上の諸権利をその夫に譲り渡すことであった」し、「彼女の財産の殆どが、婚姻の時に彼女が所有していたと、婚姻後、彼女の手に入ったものとを問わず、彼が望むならば、絶対的に彼自身のものとなった」。

より具体的にイメージしよう。当時女性が結婚するとき、身の回りの物に対する権利はどのように変化しただろうか。

まず、金銭を含む動産(家具、衣服、書物……あらゆる持ち物!)はすべて夫の所有となる。ひとたび婚姻すれば、「自分の財布」のみならず「自分の物」と呼べるものをおよそ所有できなくなることを意味する。

また、妻の持つ債権の取立権も夫が取得したから、夫は彼女の持つ金銭債権を、彼女の断りなしに取り立てて、自分のものとすることができた。
誰かに売り掛けた代金や貸したお金を自ら請求できなくなるだけではなく、株の配当なんかも夫に入金されることになる。

妻の不動産は、名義こそ夫と妻の両者に帰属するが、婚姻中は夫だけがこれを管理できた。
地代は夫の懐に入り、夫は彼女名義の土地を独断で処分することさえできてしまう。

フェミニズム・ディストピア小説として名高いマーガレット・アトウッド『侍女の物語』の続編『誓願』において、女性隷属国家・ギレアデによる支配はこのように始まる。
ある日突然、女性のキャッシュカードが使えなくなり、クレジットカードが凍結される。
臨時政府が新法を成立させ、女性のお金はすべて最近親男性の所有になる。

長らく婚姻とは、女をそのような立場に置くことを意味していた。

ではその時代の彼女たちにとって、婚姻は人生の終わりのようなイメージをもって受け止められていただろうか。そんなはずはない。
当時の中流階級女性にとって、むしろ婚姻は生き延びる唯一の道であり、憧れと喜びを持って受け止められていたはずである。

そしてこれらコモンローのパッケージにおいて、妻の財産管理権が完全に停止されるのはおおむね婚姻中だけであり、夫が死亡すると、不動産や債権はふたたび妻自身が管理することになっていた。

その背景にはこのような夫婦の理念がなかったか――円満な夫婦関係を築き、夫は妻の利益のため、寛大な後見人として、事実上妻の追認を得ながら財産を管理する。
浅慮にして賢明な妻は夫の判断を信頼し、従順に財布を委ねる。

そういえば、ヴィクトリア朝における妻の理想像をあらわす「家庭の天使」というキャッチフレーズにもぴったりの制度設計だと感じる。

父の死後、「嵐が丘」屋敷の当主となった兄が専横を振るい、彼女の魂の片割れと言えるヒースクリフを使用人の身分に貶め、また兄嫁が屋敷の女主人の座に座ったことで、実家に居場所を失ったキャサリン。
彼女が裕福な隣家の長男との結婚によって「嵐が丘」からの「脱出」を図ったことは何ら不自然ではない。

そしてキャサリンは、エドガーと結婚した暁には、リントン夫人としての地位を用いて半身・ヒースクリフを守ることを宣言する。
私は、彼女の結婚に対する想像力の粗さ、幼さゆえの激情溢れるこのシーンが好きだ。

しかし、これを聞いた女中のネリーは彼女の愚かさにあきれ、思い違いをやめるよう諭す。
われわれはこれを、夫となるエドガーへの不義を窘めるセリフであるように受け止めてしまうが、「愚かさ」の真に意味するところは色恋の機微を解さない彼女のデリカシーの欠如ではなかろう。
キャサリンは法に裏付けられた夫婦の権力関係の実際についてあまりに無知であり、そのことが後の悲劇を招いたのだ。

自業自得、か?:イザベラの場合

さて、先述のコモンローにおけるcovertureは、結婚する女すべてに課されたわけではなかった。
厳格なシステムをかいくぐる裏ワザを編み出した者たちがいたからである。

それは結婚によって財産管理権を失う女たち……ではなく、その父だった。
娘に与えた財産を、夫が好き勝手に使うのは我慢ならんというわけである。
だからこれもまた、女性の自律的な財産処分を認めるという発想で生み出された仕組みではない。

ともあれこの“Marriage settlement(マリッジ・セツルメント)”という方法を用いることで、婚姻中の女性の財産を夫の支配から切り離すことができた。
Marriage settlementを受けた妻はその特有財産を自分で処分することもできる(※3)。

父親その他の男性親族が高度な法的行為を主導できる階級では、結婚に際して、両家の間でこの取り決めを行うことが通例となった。
貧しい階級ではそもそも娘にsettleすべき財産がない場合が多かったが、自らの手で収入を得た女性は非情なコモンローに縛られ、婚姻と共に財産の全てを夫に奪われることとなった。

Marriage settlementの運用については、このように階級格差が指摘される。
しかし、女性を分断したのは必ずしも階級差だけとは限らない。
Settlementを行う主体はあくまで父や男性親族である。裕福な家庭に生まれても、彼らとの関係が破綻すれば、Marriage settlementの恩恵はけして受けられない。

『嵐が丘』において、エミリー・ブロンテはまさにその落とし穴に着目し、転落の悲哀を描き出した。

「界隈二番目の家」とはいえ実家の経済力にも家族関係にも恵まれていたとは言えないキャサリンとは対照的に、エドガーの妹・イザベラは、「界隈一番の」名士である判事の父に愛されて不自由なく育ったジェントリ階級の娘である。
しかし彼女は父亡き後、兄の反対を押し切って駆け落ち同然にヒースクリフと結婚する。
そのため彼女は最も法に近しい家柄に生まれながら、Marriage settlementの庇護を受けることなく、コモンローの定めに従ってヒースクリフのcovertureとなる。

ヒースクリフがイザベラと結婚したのはその父が彼女に遺したリントン家の遺産目当てだ。
イザベラが恋心を利用されたことに気付いた頃には遅く、彼女は「嵐が丘」に幽閉され、DVまみれの結婚生活を送る。
逃げ出して息子を産むも、失意の中病に倒れ、死亡する。
当時の婚姻制度において、どれだけ女性が苦しんだとて離婚は認められていなかったし、別居すら困難であった。

キャサリンも、イザベラも、「女を庇護する」ことや「夫婦の一体性」といった美名を掲げながら、女性の尊厳・自由・権利をきつく制限した婚姻制度に苦しみ、その理想と現実のギャップに絶望しながら命を終えたのである。

エミリーの試み:前時代の糾弾と次世代への祈り

こんな風に『嵐が丘』を彩る悲劇的エピソードの背景には家族法の歪みがこれでもかと散りばめられているのだが、この物語の時空は18世紀後半から19世紀初頭に設定されている。
エミリー・ブロンテがこの作品を完成させたのは1846年で、当時イギリスでは家族法の見直しと成文化が相次いで進められていた。
つまり『嵐が丘』は法整備の光が当たる直前の悲劇として描かれていることになる。

また、エミリー・ブロンテはこの作品を描いた2年後、1848年に亡くなってしまう。
しかしながら、キャサリンたちを苦しめたcovertureが本当の意味で廃止され、妻の自由な財産処分が可能になるのは、1882年の既婚女性財産法を待たねばならなかった。

キャサリンとイザベラの死後、『嵐が丘』の物語は次世代へと紡がれる。

この後の展開について、植松みどりはこのように読み解く。
登場する女の中で最も法に守られない存在であるキャシィ(キャサリンの娘)が、かつて法により疎外されたがゆえに法を利用して他人を支配するヒースクリフと対峙する。
そしてキャシィはただ自分自身を恃みに、生き続ける意志を強く表明することによって、法に依存して生きる彼の弱みを暴き追い詰めるのだ、と。

『嵐が丘』は、法の名の下に抑圧された前時代の女性たちの苦悩を明らかにしつつ、次世代の女性がその呪縛から「脱出」する希望への祈りを込めた物語として書かれているのだ。

日本の家族法:その連続性

さて、婚姻は集団の規範を束ねた法という装置が創出するシステムにすぎないが、社会状況が変われば、また規範を作る者が変われば当然にその内実は変わってきた、だろうか。

これまで法の作り手や担い手がどのような属性の集団であったか。
言わずもがな、男性集団である。
また法は往々にして異なる立場の利害を調整するコードとして生まれてきたが、家族法に限っては異なる色彩が強い。
同質的な立法者たちのご都合によるイデオロギーが鮮烈に反映されてきたのは見た通りである。

ではたとえば、われわれが所与のものとして受け入れている日本の家族法はどうか。
1898年に施行された明治民法において、戸主を中心とする「家」制度が敷かれ、妻は婚姻とともに夫の「家」に入り、当然に夫の氏を名乗るシステムが構築された。
また、妻の経済活動は認められず、財産は夫によって管理され、妻の財産から生じた収益は夫のものになった。
そもそも妻は法的に無能力者であって、一定の法律行為を行うためには夫の「許可」が必要であった。

どこかで聞いたような話ではないか。

明治民法の「家」制度を作り上げた規定は、日本国憲法の制定を受け、1947年に男女平等を基盤とした近代的家族法、現在おなじみの婚姻制度へと改正されたといわれる。
しかし、非嫡出子の相続分差別や、再婚禁止期間に関する女性差別は、つい数年前に最高裁の違憲判決を受けるまで放置されていたのである。
われわれは、その連続性から目を逸らすことができるだろうか。

民法750条には、このようにある。

「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」

女の名前の一部をすげ替え、夫婦の氏を統合するという仕組みは、そもそも女性を主体として扱わない、「家」制度構築の手段として生み出された。

そして戦後「近代的」民法の改正者たちが想定した家族像は、男性が働き、女性は家を守り子を育てるという「近代家族」であったから、氏の統合自体には疑問を持たず、形式的にいずれかを選択可能でさえあれば、「男女平等」は達成されると本気で考えたのだ。

かつて婚姻によって無権利者とされていた女性は法的主体となり、自分自身を恃みに人生の歩みを進め、それぞれの名で社会的に広く活動を行うようになった。
結果、古くさい法が奪うものは日増しに大きくなっている。

2015年、夫婦同氏強制の合憲性を肯定した最高裁大法廷判決は、今現在、夫婦間の協議の結果として夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めるとしても、それは「規定の在り方自体から生じた結果であるということはできない」と言い切ったが、果たして本当にそうだろうか。

過去のシステムを知ってしまえば、翻って私たちの今を目に見えない形で縛っている規範、それを誰が何のために生みだし誰をどのように拘束しているのか、という疑問を避けることはできない。
その決まり事はどんな風に生まれ、それにより誰が得をして、誰が損をしているのだろう。

おわりに:トーチを受け継ぐ

1818年のヨークシャーに生まれ、一世代前の法の下に抑圧された女性たちを想ってその苦悩を描き出し、次世代に希望を託したエミリー・ブロンテ。
1985年の日本において、その祈りを読み解いた植松みどり。
私はこのように過去の女性たちの営みと出会う。

先週、ふたたび夫婦同氏強制を合憲とする最高裁の決定が下された。
法は女性不在で作られ、女性不在で運用される。
「法律はいつも女性に優しくなかったが、女性たちはそのような仕組みにも負けずに闘いながら、社会を一ミリ一ミリ変えてきた」という(※4)。

最高裁は、選択的夫婦別姓の導入について、「この種の制度のあり方は国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」と繰り返している。

1946年11月、日本国憲法が公布され、国民主権と男女平等が明記された。
先んじて1945年の12月に衆議院議員選挙法が改正され、1946年4月、初めて女性が選挙権を行使した。
立法という営みは、女性が半数を占める国民の手にある、ということになっている。
前世代からある枠組みを、現実の生き方に沿って曲げ伸ばしできるのは誰か。
理屈の上では、今生きる私自身がそうなのだと思う。

それは松明を掲げ、藪をかきわけ、道なき道を拓き、山道を登るようなものだ、と語るのを聞いたことがある。
2015年の最高裁大法廷判決に際し、民法750条は憲法24条に違反するものであるとの意見を付した元判事が、女性が社会で生きることについてそのように表現したのである。
山の頂上はまだ見えないし、きっと五合目から先はますます大変なのでしょうけどと、彼女はそう言った。

私は無数の彼女たちがその火を連綿と繋いで来た道のりを思うとき、その果てしなさに気が遠くなる。
しかし同時に、かならずトーチを受け継ぎ、次世代により高い場所で手渡さなけらばならないとも考える。

闇夜の山登りにくじけそうになったとき、いつかきっとまた『嵐が丘』を開くだろう。

◎参考文献
三田地宣子「イギリスにおける生存配偶者の相続権」 (1966年)
浅見公子「イギリスにおける妻の財産上の地位(一)」(1967年)
※1:「英文学研究」 62 巻 1 号 p. 35-47(1985年)
※2:中村敏子『女性差別はどう作られてきたか』(集英社・2021年)に詳しい。
※3:なお、制度の進展とともに、妻に特有財産を持たせつつ、「既婚婦人の保護」を名目に、妻自身による処分を禁じる条項が一般化したという。
※4:角田由紀子『性と法律ーー変わったこと、変えたいこと』(岩波書店・2013年)「あとがき」より。

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