黒い足

 夕方だった。日はいつの間に暮れたのか、それともまだ山あいのどこかにいるのか、その姿は見えない。夜明け前にも似た薄藍の空に、かすかな朱の溶けた雲が残っている。それすらも徐々に生気を失い、今はまるで老衰を待つ猫のような色だけが満ちていた。光も影も存在をひそめた時間に、かれはただ座っている。風が吹き込んでくるのに合わせて、くすんだレースカーテンが開け放った窓に流れる。時おり体を撫でていく感触は、かれの意識を体から解き放つのには適していた。

 なかば朦朧とした意識で、妹のマニキュアを手に取る。かれがこうして時々足の指に色を塗っていることは、家族すらも知らないかれだけの秘密だった。家でも常に靴下を脱がず、爪先を見せないことを奇異に思う人は今のところまだ現れていない。かれの周囲を思い起こせば、なぜ隠さなければならないのかはかれ自身にも分からなかった。ただ誰にも気づかれずに爪先を染めること、その秘密を秘密のままにしておくことこそが、かれにとっては重要な事実だった。こうして誰もいない時間を狙うから、かれは夕方になるとあの匂いを思い浮かべる。

 友達がくれたアンクレットが足首に巻き付いている。夕暮れの後では白いその足を取り、丁寧に色を付ける。今では慣れてしまったきつい匂いが脳みその芯を痺れさせる。

 足の指に色を付けることをペディキュアと呼ぶのだと教えてくれたのは妹だった。サンダルを履くために、いちいち爪を塗り替えることについて、かれは何も言わなかった。興味がないと思わせたかったのだ。

「やってみなよ。黒とか、絶対似合う」

 屈託なく笑う妹にせっつかれて、かれはわざわざ色を落としてから妹の部屋に出向いた。妹がもう一度マニキュアを手に取るタイミングに合わせて。

 妹は予想通り、以前と同じようにかれの指に色を付けることを勧めた。かれが苦笑して受け流そうとするので、なかば無理矢理にも色を塗り始めた。かれはその時の安堵を今でも覚えている。足の指に色を塗ることを、こうも簡単に肯定されたのが嬉しかったのかもしれない。

 かれの周囲はファッションに敏感な人が多かったし、メンズファッションしか身につけない女友達も、メイクをする男友達もいたが、足の指に関してはあまり知らなかった。それこそ、素足になるまでは分からないし、そもそも晒される機会が少ない。人の目に触れるつもりのない箇所を、自分の思いのままに飾り付けることで、かれは確固たる自我を保っていけるような気がしていた。

 塗り終わった爪先を風の前にかざす。乾くまでの時間、かれは満ち足りた気分でいられる。この時間が好きだった。

じっくりと爪先を眺めていると、突然窓の外で音がした。かれははじめ、風にあおられたカーテンの音だと思った。しかし、音はかれの目の前にまで落ちて来る。顔を上げると、羽をたたみかけた鴉と目が合った。真っ黒な鴉の顔を見た瞬間、あの音は鴉の羽音か、と理解すると同時に、かれは鴉に意識を乗っ取られたのを感じた。鴉はすぐに飛び去ったが、かれの脳裏にはその目が焼き付いた。まがい物の秘密を持っている、と思った。それに気づいてしまったことに、かれはかすかな焦りを覚えた。

 もうすぐ月がのぼる。


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