ぺの
あの時、俺はどうすればよかったのだろうか。ふとそんなことを考え出しても答えの出るものではない。でも、間違えてしまったことは確かなのだ。あの時確かに生じた亀裂があ…
広い海を漂っていくのは、思いのほか簡単なことではない。海に生きる魚や、えびやその他多くのよくわからない生き物も、おおむねクラゲのことを楽して生きているものと思…
もうすぐかえります。春に還ります。春はすべてが孵ります。 懐かしい声がしますね。誰の声でしょう。あなたの声でもありますね。 もうすぐかえります。春が孵ります。す…
音はしない。 いつも見る夢だ、と彼女は言う。 果てしない遠くのほうまで、水面が広がっている。見渡す限り、水面が続いている。ところどころ群生する木はさして背が高い…
二人の男が話している。 「今年もこれで終わりか」 「まだ夏だろ。もう年明け気分なの?」 「違うよ、花火。もうすぐ終わっちまうなと思って」 「いいじゃん、フィナ…
ずいぶんと冷静に発狂するようになった、と思う。以前は怒るにも、悲しむにも、思い出し笑いすら、脊髄反射だった。理屈も自意識も差し挟む余地なく、感情は己のうちから…
夕方だった。日はいつの間に暮れたのか、それともまだ山あいのどこかにいるのか、その姿は見えない。夜明け前にも似た薄藍の空に、かすかな朱の溶けた雲が残っている。そ…
扇風機が回った ぬるい風が回って ここは南国の陽気 昼下がりの窓とカーテン越しの光 まだ少し眠い まどろむ前に少し息をする 息を吐く 脳裏に青空が浮かぶ じんわ…
ノスタルジーを誘う看板 ネオンの切れた出入口 あせた光が射す朝の繁華街 乾いた砂が風に巻き上げられて 渋柿をかじった口の中みたいな 痺れる瞼に安い色が躍る 駄菓…
流れゆく心を 嘘泣きみたいな笑顔に封じて 笑う いつまでも 届かない 素敵な思いを 笑う 広がる涙が笑う ついたため息をさらって 笑う 何度でも 吐き出される心…
花も、帽子も、手首も 夢も、寒空も、歌声も あらゆる全部をたくわえて、 たくわえて、 潤んでいくのです。したたるほどに。 嬉しさと、楽しさと そわそわ、うきうき…
亀の逃げた水槽 墓前の水挿し 片付け忘れたペットボトル 屋根裏を叩く雨 唇を濡らした雫 枯れ草の粘り水 腐った水は忘れた心
夢は終わった。もう長いこと、ずっと見ている夢だった。揺られ漂って、少女は青い水の中で息を吐いた。真正面に向かって泡が膨らんでいく。なら、今は仰向けになっている…
昇る階段の先に空がある。彼女は階段を昇るのが好きだった。拍を取る爪先。イヤホンのコードに映る空色。自分から顔いっぱいに風を受ける。上から吹き降ろす風に足を差し…
にゃんこがおる。道路のなかの安全地帯ににゃんこが生えていた。本物じゃない。エネルギーの噴出物がにゃんこの形をとっている。そんな感じに思えた。ちょっと亡霊チック…
少年は傘をさして駅からの家路を歩いていた。雨はもう降っていなかったが、濡れた折り畳み傘をぶら下げるのも、鞄の中に突っ込むのも御免だ。くるくると傘を回して、雨水を…
2024年4月27日 22:37
あの時、俺はどうすればよかったのだろうか。ふとそんなことを考え出しても答えの出るものではない。でも、間違えてしまったことは確かなのだ。あの時確かに生じた亀裂があった。その苦い思いは遠く過去のものになり、乗り越えたといってよいと思う。しかし、たまに思う。どうすればよかったのだろうか、と。あの時生じたままの亀裂を、俺は踏み越えられないでいる。 久々に会った幼馴染は、髪を首筋までで切りそろえていた。
2024年4月27日 22:34
広い海を漂っていくのは、思いのほか簡単なことではない。海に生きる魚や、えびやその他多くのよくわからない生き物も、おおむねクラゲのことを楽して生きているものと思い込んでいるようだった。実際には、周りのものが考えるほど楽な暮らしはしていない。クラゲが楽そうに生きているように見えるのは、クラゲ自身がそのように語っているからだ。楽に暮らしていると語り、楽に暮らしているのだという顔さえ崩さなければ、だれも
2024年4月27日 22:30
もうすぐかえります。春に還ります。春はすべてが孵ります。懐かしい声がしますね。誰の声でしょう。あなたの声でもありますね。もうすぐかえります。春が孵ります。すべてが還るときです。聞こえるでしょうか。あれが芽吹く音ですか。これがつぼみの開く音でしょう。もうすぐかえります。春の還りです。すべてが変わる春です。優しい音がしますね。水の音です。火の燃える音かもしれません。もうすぐかえ
2024年4月27日 22:28
音はしない。いつも見る夢だ、と彼女は言う。果てしない遠くのほうまで、水面が広がっている。見渡す限り、水面が続いている。ところどころ群生する木はさして背が高いわけではない。何かにしがみつくようにまとまって生えていて、それがまるで水田のなかにぽつんと残った祠を守っているような唐突さがあるのだという。彼女はいつもそこに立って、ただ立って周りを見渡している。木になったような気分になるというのだ。
2024年4月27日 22:24
二人の男が話している。「今年もこれで終わりか」「まだ夏だろ。もう年明け気分なの?」「違うよ、花火。もうすぐ終わっちまうなと思って」「いいじゃん、フィナーレ。豪華で」「終わりが華々しくてもな。後が虚しいだろ」 ロングのビール缶を足元に置く。 二人の男が話している。「お前最近、ちょっと世の中嫌いだよな」「なんだそれ」「厭世的っていうのかな。虚無主義的な」「
2024年4月27日 22:21
ずいぶんと冷静に発狂するようになった、と思う。以前は怒るにも、悲しむにも、思い出し笑いすら、脊髄反射だった。理屈も自意識も差し挟む余地なく、感情は己のうちから湧いて出るものだったはずだ。近頃ではそうした理屈抜きの感情を、ほとんど感じなくなってしまった。いや、感じてはいるのかもしれない、とわたしは鶏の骨を舐めながら考える。ふと我に返ったようにしか、認識できないのだ。たとえば、今、わたしはうんざりし
2024年4月27日 22:19
夕方だった。日はいつの間に暮れたのか、それともまだ山あいのどこかにいるのか、その姿は見えない。夜明け前にも似た薄藍の空に、かすかな朱の溶けた雲が残っている。それすらも徐々に生気を失い、今はまるで老衰を待つ猫のような色だけが満ちていた。光も影も存在をひそめた時間に、かれはただ座っている。風が吹き込んでくるのに合わせて、くすんだレースカーテンが開け放った窓に流れる。時おり体を撫でていく感触は、かれの
2024年4月27日 22:16
扇風機が回ったぬるい風が回ってここは南国の陽気昼下がりの窓とカーテン越しの光まだ少し眠いまどろむ前に少し息をする息を吐く脳裏に青空が浮かぶじんわりと眼球が痛む涙は出ないおやすみもなく境もなく真空に吸われるように温度のない夢へ滲む汗に鼓動が上がる背中が温かい湿った部屋着に扇風機の風が当たる濡れた肌をこする涼しくはないここは南国の
2024年4月27日 22:15
ノスタルジーを誘う看板ネオンの切れた出入口あせた光が射す朝の繁華街乾いた砂が風に巻き上げられて渋柿をかじった口の中みたいな痺れる瞼に安い色が躍る駄菓子の味を覚えていますか色違いのガム香りばかり違って実は全部同じ味いま食べたってコーラの味がするのに空の色を覚えていますか集めたカードやゲーム楽しいことがいっぱいで見上げる余裕もなかったいまは空
2024年3月14日 11:05
流れゆく心を嘘泣きみたいな笑顔に封じて笑ういつまでも届かない素敵な思いを笑う広がる涙が笑うついたため息をさらって笑う何度でも吐き出される心を笑う震えた心と響いた声と幸せな思いを笑うなにもかも失う日の夜に笑う何もない昼下がりに笑うそれでしかありえないような笑顔涙の裏付けのように贖罪のように底意地の悪さを見
2024年3月14日 11:04
花も、帽子も、手首も夢も、寒空も、歌声もあらゆる全部をたくわえて、たくわえて、潤んでいくのです。したたるほどに。嬉しさと、楽しさとそわそわ、うきうき歓声を上げたいような、思いきり笑いたいようなそういう全部を吸いこんで、吸いこんで、膨れていくのです。したたるほどに。塩辛い水を含み、海綿は揺れます。揺れては揺れるうちに、水をいっぱいたくわえて触れ
2024年3月14日 11:03
亀の逃げた水槽墓前の水挿し片付け忘れたペットボトル屋根裏を叩く雨唇を濡らした雫枯れ草の粘り水腐った水は忘れた心
夢は終わった。もう長いこと、ずっと見ている夢だった。揺られ漂って、少女は青い水の中で息を吐いた。真正面に向かって泡が膨らんでいく。なら、今は仰向けになっているのだろう。ずっと遠くに輪郭のない太陽が見える。水の中にその色は蒼あおい。しゃがれた波の中に少女の吐いた息が切り揉まれて太陽を崩していく。少女はゆっくりと瞬いた。衣服を絡めた手足がどこまでも沈んでいく。髪が広がっては纏まといついていく。太陽に
2024年3月14日 11:01
昇る階段の先に空がある。彼女は階段を昇るのが好きだった。拍を取る爪先。イヤホンのコードに映る空色。自分から顔いっぱいに風を受ける。上から吹き降ろす風に足を差し出して次の一歩を踏む。頭こうべを上げて首を伸ばす。昇り階段では、彼女は下を向かない。踊り場に向けて真っ直ぐ眼差しを向けていられる。手すりを掴んで踊り場を折り返し、次の十段へ。灰と白のミルフィーユの先にはまた空が彼女を見下ろす。空は青い。雲を
にゃんこがおる。道路のなかの安全地帯ににゃんこが生えていた。本物じゃない。エネルギーの噴出物がにゃんこの形をとっている。そんな感じに思えた。ちょっと亡霊チックである。ニャーンと平坦な鳴き声が聞こえるような気がする。もちろん気のせいだ。だって頭の中にダブった道路の中に生えたにゃんこだから。普通、にゃんこは生えない。道路だろうが草むらだろうが、生えたりしない。これは想像上の、ちょっとおかしなにゃんこ
2024年3月14日 10:58
少年は傘をさして駅からの家路を歩いていた。雨はもう降っていなかったが、濡れた折り畳み傘をぶら下げるのも、鞄の中に突っ込むのも御免だ。くるくると傘を回して、雨水をはね散らかす。紺青の空にくっきりと淡い灰色の雲がたなびいていて、尾を引いたその輪郭は薄く滲んでいた。そう遅くはない時間だというのに、とうに月が昇っていた。月をはらんだ雲が、丸く虹を作って雲の濃淡を彩っている。おぼろ月というには隠れすぎていた