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【無職エッセイ】寝坊した鶏

平日正午に結露した窓を越えてくる陽光の美しさは何故か無職者を孤独に陥らせます。
これは光と影の単純類推でしょうか?
或いは生物の狡猾な叫びでしょうか?

上階の排水音が聞こえます。
冷蔵庫が老犬の如く唸ります。
太陽が雲に隠れます。
静寂が霧の如くかかります。
適度に騒がしいエンジン音が聞こえます。
ここは空き部屋が増えゆく山麓のマンションです。急坂を鉄の塊が駆けてゆきます。
たぶん登りでしょう。
怪物です。
脂ぎった本性を爽やかな外装で隠す怪物です。
脆弱な無意識と対話している者を後ろからしつこく揺さぶる怪物です。

ああそうだ
と自分の鼓膜が思い出したようにテレビの喋り声に震えます。自分の部屋の19インチのテレビはつけていないので隣の婆さんのテレビです。恐らく壁際に設置されているのでしょう。どこか無気味に拡張され聞こえてきます。ちなみに婆さんと言いましたが姿は見たことがなくただの推測です。
話は脱線しますがテレビの喋り声とはご存知の通り正確には人間の声ではないと言えるでしょう。カメラやマイクといった得体の知れぬ機器によって一度デジタル信号に変えられたものですから。
そう考えればテレビでしか見たことのない好きな芸能人も定型文を言い続けるコメンテーターも、またテレビに映るあらゆる景色も虚構となりましょう。いや奇怪ですか。
しかしそんな風に捻くれた眼で世界を捉えるならばこれまで直接会ってきた身内や友たちとのあの愉快なお喋りも所詮は空気の振動となってしまうのでしょうか。しかもそれは体内で電気信号に変わって脳に伝わるというではありませんか。あれ、なんだか話がつまらなくなってきました失敬。

ところで婆さん(仮)のつけるテレビの音量は特段大きいわけではなくこちらが何の音も立てない時に聞こえてくる程度であります。なので頗る音に敏感な自分でも目立った不快さはありません。にしても婆さん、テレビのつけすぎ感は否めません。朝から晩までずっとつけられている気がします。
しかし自分は知っています。
何かしらの声も気配もなき環境は風のように淡々と人間の本能に不安を産みつけてゆくことを。

再び冷蔵庫が唸ります。
僕の鼓膜が静にすがりすぎているのは否めません。
いま気がつきました。
静寂は世界を明確にするということを。
静寂は世界を現出させるということを。
言葉遊び失礼しました。
冷蔵庫は先月から一緒に暮らしている彼女が前の家で使用していたものを持ってきてくれました。
当然立派な社会人として働いている彼女よりこの家に居る時間が多い自分ですから洗濯、掃除、料理といった現代社会において忘れられがちな人間の健康にとって大切な要素を昔の専業主婦?のようにこなしています。よって彼女が持ってきてくれた家電や食器などは気がつけば僕の掌、鼓膜に馴染んでくれています。

十二畳のリビングとその先のベランダ間に立つ背の高い窓からは隣のマンションの屋上が見渡せます。雨上がり、屋上を照らす陽射しが空気中にきらきら舞う光景はどこか雪の湖の景色を想起させます。
ここに越してきた当初、三日に一度ほどそのマンションの住人であろう婆さん(時折爺さん)が屋上の柵に自分の洗濯物を干している光景が見られましたが最近見ていません。もしかして僕がいっつもこの部屋に居るからでしょうか。怖いだろうなぁ。

二月下旬の陽光はラウンドテーブルの下までするする入り込みいつのまにかスリッパを脱いでいた僕の足の甲を暖めてくれています。時折、眼球に日光を浴びせる欲求に駆られる僕は椅子から離れ窓の傍に立ちます。南東の下界に見えるのは海です。手前には工場と街です。奥には大阪平野が見えます。ああそうだおいらはいま山にいるようです。


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