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ディズニー映画WISHへの批判から見える息苦しさ



ディズニー映画『ウィッシュ』の感想です。
ネタバレを多く含むためご注意ください。

なお、筆者はディズニーファンではないため「各所にちりばめられた過去作のオマージュが。。。」といった話は分からないため悪しからず。

要点

  1. 『ウィッシュ』はディズニーらしいテーマの映画である

  2. 活かせていない設定があるなどプロットに問題点があり、テーマに至る手段にカタルシスを持たすことに失敗している

  3. 作品への批判は「理想を実現するための手段が少しでも悪ければ、その人の考え全てを否定しても構わない」という主人公の独善性を問題視している

  4. テーマにいたる過程が失敗していることを根拠に『ウィッシュ』という作品を全否定するのは、本作の脚本と同じ失敗をしていてダサい

  5. 『ウィッシュ』にしても、過程には寛容に、テーマを重視しして語り合ったら楽しめるでしょ?

『ウィッシュ』のテーマと評判

ウォルト・ディズニー・カンパニー創立100周年を記念されて制作された『ウィッシュ』は、「願いは自分で叶えるもの」という力強いメッセージを核とするディズニーらしいファンタジーだ。

どんなことが待っていようと
立ち上がる勇気をもって
この願い今日よりもっと輝く
この願い あきらめることはない

ウィッシュ~この願い~ の歌詞より引用

幅広い年齢層をターゲットとする本スタジオのアニバーサリーとしてふさわしいテーマが採用されているように見える。しかし、『ウィッシュ』の評判は芳しくない。本編前の『one upon a studio』がメインとまで言われる始末で、本国アメリカでは日本以上に不評とのこと。批判の多くは本作のヴィラン、マグニフィコ王の扱いと主人公アーシャの主張に向けられている印象を受ける。

マグニフィコ王は努力により悲惨な過去を克服し、他者のために生きる人物だ。彼の人生は悲惨そのものだ。祖国を追われ、両親を殺され、その過程にて抱いたいくつもの願いは打ち砕かれた。深い絶望の中でマグニフィコは魔法に縋った。ありとあらゆる書物から魔法を学び、ついに、願いを守りそれを叶えるだけの力を自らの努力により得た。慈悲深きマグニフィコはこの力を自分のためでなく他者のために使った。地中海の島にロサス王国を築き、望むもの全員を受け入れた。国民は王に願いを差し出し、月に一度、一人の国民の願いは叶えられる。ロサス国民はいつか願いが叶うという希望のもと、願いを壊される絶望とは無縁の理想郷での生活を謳歌していた。およそヴィランとは程遠い人物、それがマグニフィコなのだ。

しかし、この願いを守り、その一部を叶えるという管理法には大きな欠点があり、これが物語のカギとなる。国民が差し出した願いは、これに紐づく記憶ごと切り取られる。願いが強ければ強いほど、その人物は抜け殻となってしまうのだ。また、叶えられる願いは王により選別されるため、国家運営上不利益となりえる願いは保管され続ける。上記テーマを扱うにあたり、前者は特に重大だ。願う行為を奪われることは、自身により願いを叶える力そのものを否定することに他ならないためだ。しかし、本作主人公アーシャは後者に深く憤り、100歳となる祖父の願いを叶えてあげることを目的として行動する。一応、友人に「抜け殻」となった人物がいるのだが、彼を思いやる描写は殆どない。また、「叶えない願いは本人に返すべき」といったセリフはあるものの、当のアーシャは終始家族のためだけに行動するものだから本作は下記のような対立構造になってしまう。それでは世間の評価は得られないだろう。
「願いは自分で叶えるもの」という建前で家族の願いを叶えたいだけの利己的な主人公
vs
悲しい過去を努力により乗り越えた慈悲深き王

アーシャは父との思い出の木の上で星に願うことで「スター」と出会い、神秘的な魔法力をもって王の秩序を打ち壊すべく画策する。自らの魔法そして自らが築いた王国のみが拠り所のマグニフィコは、王国が未知の魔法により傾くことを恐れ、禁術に手を出してしまい、ついには正気を失い狂ってしまう。これまで王がなしてきた善行の一切を無視する主人公は、願いの管理法に不備があったという一点で王を地下牢へと送り込み、勝利の歌でエンディングを迎えるのだった。

映画のテーマとの食い違い

主人公アーシャはこの国の問題を解決する手段を提示できていない。この国は「抜け殻」となった大人で構成されており、本来活力あふれる国にはなりえないはずだ。にもかかわらずロサス王国が理想郷であり続けられるのは、国民の大部分が願いを差し出す前から「願う力」を失っているからに他ならない。そもそもこの国はマグニフィコ一代で築き上げた国である。国民のほとんどは外の世界に疲れ、願う力を失ったがゆえに、およそ人生の延長線上にない絵空事を夢見ることしかできなった。その無気力さが彼らをロサス王国へ導いた。彼らの願いは「空を飛びたい」だとか「国一番のドレスを仕立てられる道具が欲しい」といったもので基本的に神頼みだ。アーシャは王は国民の願う自由を奪っている、という主張を一応はするものの、そもそもこれを望んだのは国民自身であるので、おせっかいでしかない。

しかも、当の大人たちはアーシャが真実を伝えると簡単に立場を変え、アーシャを賛美する。外の世界に疲れロサス王国を選んだ過去など一切忘れ、「願いを叶えてくれないのなら返せ」と主張するばかり。アーシャ達の革命が暴いたのは、願う力の重要性などではなく、他人に縋ることしかできない利己的な大人達の醜さだったのだ。

繰り返すがこの国は、願いを壊される痛みから逃れ、絶望することなく生きる手段を自らの手で見出したマグニフィコによって築かれた。これはマグニフィコが自身の過去と向き合うことで、人々を絶望から遠ざけるための手段だったのだ。しかし、国民たちは絶望などしていなかった。願いを壊される痛みを知れるほど、何かを強く願ったりはしていない。この物語の中で絶望を知る人物はほとんどいない*。願いの脆さ、儚さ、これを失う痛みを知るのはマグニフィコただ一人であり、彼は終始孤独であったのだ。事実、物語最後でマグニフィコは妻にまで見放される。彼を慕うものなど一人としておらず、妻を含めた国民が求めたのは彼ではなく、彼の魔法の力だけだった。
*アーシャは父と死別した、という描写があるが、「お父さん死なないで!」とかいうシーンもなく、ただ王に慰められるだけなのでこのように書いた。

このように映画『ウィッシュ』は「願う力の大切さ」を主張する一方で、誰よりも強い願いを持ち、人を悲しみから遠ざけようと奔走したマグニフィコを無様なまでに否定する。この矛盾が『ウィッシュ』の評判につながっているのだ。

どうすれば良くなったのか?

上記の通り突っ込みどころは多くあるが、ここでは一点のみ指摘する。主人公アーシャの父の存在だ。物語時点で彼は他界しているのだが、王にも認知されている哲学者であることが明かされる。普通のファンタジーに哲学者が出てくるわけもなく、この設定は製作者側が意図したものと考えている。

アーシャは父に星に願うことを教わったのだが、願う力を奪われたロサス国民であるアーシャの父は、なぜ星に願うことができたのだろうか。筆者はこの理由を、アーシャの父が哲学者であるためと考える。哲学に詳しくもない筆者が語るのはおこがましいが、哲学とは洞察と論理により良い生き方を見出す学問であると認識している。願う力を奪われようと、身の回りを注意深く観察し、考え、生きていけば願う力を取り戻すことができる。この力こそ『ウィッシュ』が本来伝えたいテーマではないか。アーシャが今は亡き父の教えに向き合い、その意味をかみしめ、友人たちと星に願う意味を語り合うことができていたのなら、彼ら自身で願う力を取り戻せていたのなら、この物語は先のような矛盾には陥らなかったはずである。

これは邪推に過ぎないが、本作は製作途中でプロットを軌道修正したのではないかと考えている。偉大なるディズニーの制作陣のことだ、筆者のような凡人が考え付く凡庸なアイデアなど塗り替えるほどのまだ明かされていない設定があったはずだ。これを途中で変えてしまったばっかりに支離滅裂のストーリーが出来上がったのだと思うと残念でならない。

多くの批判が見過ごしている観点

決して本作が良作だとは思わない。けれど、批判するにしても一歩ひいてするべきと考えている。

マグニフィコの思想は決して純粋悪ではない。適切に運用し、願いを差し出す側の同意がとれているのであれば、むしろ優れた手段とすら思う。アーシャが批判したのは運用方法のみであり、この核となる考え自体を理解しようとするそぶりを一切見せない。その独善性が非難の的となっている。多くの批判をより抽象化すれば、「理想を実現するための手段が少しでも悪ければ、その人の考え全てを否定しても構わない」という考えへの批判である。

昨今、ちょっとした言い間違え、ワードチョイスが切り取られ本来の意図とは異なる形で拡散されることがある。報道機関はそうした言い間違えを嬉々として取り上げ、政府要人、芸能人、立場ある人たちを引きずり降ろそうと必死である。これを模倣した”正義感”あふれる一般人もそうだ。今の時代は、発言すること、行動すること自体がリスクになってしまう。自分を守るには何もしないことが一番なのだ。こんな息苦しい世の中が嫌だから創作の世界に逃げ込んでいるのに、ファンタジーにすら現実が侵食してきてしまっている。

本作の問題点はテーマではなく、それに至るまでのアプローチだ。それが映画のすべてだ、と言ってしまえばそれまでになってしまう。だけれど、僕たちがディズニーが作るようなファンタジー欲するのは完ぺきな物語ではなくて、完ぺきな物語「体験」だと思う。だから作り手だけに期待するのではなくて楽しむ側の僕たちも過程に寛容になり、作品が見せたかったテーマを語り合いながら楽しめばいいのでは、と思う。

ただ、記念作なのだからもう少し頑張ってよ、っていうのは素直な気持ちなのだけれど。。。




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