年末に悪いのですが、いつも食べるお米について話してみよう
*本人、晩酌にめずらしく小さなボトルワインを飲んでおります。
少々酔っ払っているかもしれませんので、先に謝っておきます。
2018年も今日の数時間と明日で終わり、2019年へ突撃ですね。
今日は、家族3人で安いところに外食をして帰ってきて、楽しみにしていたアイスクリームを食べました。
むしゃむしゃと食べている時に、ふと思い出したことがありまして、これはぜひシェアしておきたいと思い、あわてて、パソコンを出しました。
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今、私は家族がいて、ペットがいて、ご飯も食べれて、持病がある以外はごく普通の生活を送っています。
今日だって、普通に朝を迎えて、家族と一緒に1日を過ごし、夕飯を食べて、アイスを食べて「あー、幸せ」と喜んでいます。
しかし、その一方で、貧しく生活に苦しむ人、一人で寂しく過ごしている人、帰るところがない人、様々な思いで年越しをする人がいることでしょう。
これは、私が高校時代の時の話になります。
私が通った学校は、大きなお寺が運営している学校で、宗教の時間というものは、確実に週1回行われていました。
校長先生は、お寺の管長さんでしたから、週1回の学年集会で法話がありました。お話はとても面白く楽しいもので、毎週が楽しみでなりませんでした。
しかしですね、高3の卒業前に必ず受けなければならない「樹海灌頂会(じゅかいかんちょうえ)」という、仏様のお弟子さん(形だけですが)になる儀式を受けないと卒業させてもらえないというのがありました。
今は日帰りで受けて帰るそうですけれど、私が在籍した時は、お寺に一泊2日というもので、夕方のお勤めや夜のお勤め、朝のお勤めと、それは忙しいものでした。
たくさんのお坊さんがつくのですが、普段穏やかなお坊さんはこの時だけは鬼のように怖い怖い!もう泣きそうになりました。
食事はもちろん精進料理でしたが、食事を始める前に言われたことは「小さなお皿があるでしょ。そこに米粒を7つ入れなさい」ということでした。
7つ米粒を数えて小皿にいれて、それから拝んでいただくというものでした。
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あとで、この「7つの米粒をとりわける」ことについて、宗教の時間でじっくり解説をしていただいたのですが、「7つとりわけるのは、米粒ひとつにそれぞれ神様がいる」ということで、七福神とのつながりはあるとはおっしゃいました。
その後がポイントで、「この世の中には、ご飯にありつけない人、家がない人、住まいがない人、様々な環境で苦しんでいる人がいる。その人たちに、せめてもの自分たちが食べるものを、おすそ分けするんですよ。」と話されました。
7つの米粒を取り分けることは、偽善行為になるかもしれませんし、「そんなものいらない」と拒む人もいるでしょう。
しかし、偽善行為と言われても、見ず知らずの世界へ、そして国内でなんらかの飢えや乾きに対して、気持ちが届かなくて、自分がいかに恵まれているかの戒めにもなります。
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今は、カトリックに改宗していますが、実はクリスマスや復活祭のミサの時には、「献金」として、恵まれない人たちへの助けとして、教会ではなく、NPOの慈善団体に寄付するようにしています。
これも、偽善運動だと言われれば、しかたのないことなのですが、誰かの助けになればという思いからやっていることなので、誰も攻めることはできません。
問題は、人助けと名乗りながらお金を騙し取る団体がいるということです。
これはとても悲しいことです。
人助けという名を利用して、人を騙すことは最低な行為です。
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なんだか説教くさくなってしまいましたが、今、この寒空を寂しく過ごしている人に、余計なお世話をしているかもしれませんが、どうか、こういう考えをもつおばさんがひとりいることを忘れないで欲しいです。
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