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岩屋卓史(寝屋川石田)という男㊦

 先日、帰郷間近の岩屋君に寝屋川で会い、改めてベストバウトを聞いてみた。すると「初勝利の試合(3戦目)」「試合1週間前にオファーを受けた東京の試合(5戦目)」、そして「やっぱり木村蓮太朗戦(8戦目)っすねー」。

 プロのリングで戦った全9試合のうち、3試合もブッ込んできた。

 そばで見てきた私の「ベスト」は9試合の中にはない。2020年9月の木村蓮太朗(駿河男児)戦は、確かに岩屋君のボクサー人生のハイライトではあったと思う。私が思い出深いのは、その木村戦が決まってから試合までの約2カ月だ。ボクサー人生で最強の敵との戦いに備えた時間。そこにボクサー岩屋卓史の一番の輝きがあったと思うのだ。

日本ランカーを完封!?

 ㊤でも書いたが、スパーリングする相手のレベルが上がった。ある日、寝屋川石田ジムに取材で行くと、こんな話が飛び込んできた。「先日、岩屋さんがスパーで日本ランカーの○○選手を完封していましたよ!」

 声の主は元ミニマム級4団体世界王者の高山勝成。えっ、それホンマに!?。今、思い返すと、だいぶ話を盛っていたような気もする。距離をつぶしてグチャグチャの消耗戦が十八番の岩屋君に「完封勝ち」はない。ただ、力をつけているのは確かだった。

 ちなみに大阪に来る前、一人のボクシングファンだった岩屋君は、この名王者と写真を撮ってもらっている。その写真のことは「何か恥ずかしくて、いまだに高山さんには言えないっすよー」。あえてここに貼っておきます。

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 【写真説明】ボクシングファン時代の岩屋君(右)と高山勝成

恐怖心との向き合い方

 この頃、私は毎日のように連絡を取り合って練習の様子を聞いていた。一つ、真面目な質問をしたことを覚えている。

 木村蓮太朗はその2カ月前のデビュー戦で、強烈な左からの右アッパーで相手をぶっ倒していた。思わず「危ない」と感じるダウンシーンだった。岩屋君にどうしても聞いておきたかった。

 「木村蓮太朗とやる怖さってないの?」

 岩屋君の答えはこうだった。

 「もちろんですね、プロで試合をする上での、当たり前の恐怖心はあります。でも、それ以上は…。考えないようにしています」

 ゾクッとする言葉だった。どこかで鈍感にならなければ、恐れているばかりでは、あんな相手とは戦えない。岩屋君の覚悟が伝わってきた。

 試合前日、計量を控えた岩屋君は早朝の新大阪駅から静岡へ出発した。私は見送りに行き、その様子を短い動画にまとめた。

 静岡は無観客開催。私は取材で会場のふじさんメッセに入れてもらった。

 セミファイナル。岩屋君は入場曲「富士の国」(長渕剛)に乗って現れた。1Rからガードを上げ、前へ前へと圧力をかける。木村蓮太朗は切れるようなパンチを繰り出すが、岩屋君のディフェンスの集中力はいつも以上に高かった。2Rまで、ほとんどの強打をブロックした。ただし、ガードするのに精いっぱいで打ち返す余裕がなく、ポイントは明らかに木村だった。

 会場には駿河男児の後援者が何人かいた。最初は木村の派手なKOを期待する空気が満ちていた。

 2Rが終わると、「これ、倒せないんじゃないか」「なんかこの相手、めちゃくちゃ打たれ強いな」という不穏なムードが漂い始めた。

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【写真説明】私がグッと来たのは、エリート街道を歩いてきた木村と、日の当たる舞台とは縁がなかった岩屋君が、初めて向かい合ったこの場面だ。

エリートの本領

 迎えた3R。木村はがらっと動きを変えてきた。素早くサイドに動き、前進する岩屋君の背中を取るようになった。ここからは一方的だった。固いガードの間をアッパーで狙うようにもなった。4Rまで何とか耐えた岩屋君だったが、5Rに猛攻を受けるとセコンドが棄権の意思を示した。TKO負けだった。

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 岩屋君は力の差を痛感したものの、A級昇格への「あと2勝」をあきらめてはいなかった。木村戦で進化したディフェンスに、もう少し攻める力がつけば…。

次もまた強敵と

 そして2021年、岩屋君の運命を左右することになる対戦相手が決まった。B級ボクサーではない。何とA級の選手と沖縄で戦うことに決まったのだ。

 大湾硫斗(当時Ambition、現志成)。元世界王者・比嘉大吾が故郷でメインイベントを飾る興行で、同郷・同門の大湾はセミで6回戦を予定していた。その相手として声がかかった。

 その頃、寝屋川石田ジムの選手は敵地で格上と戦う試合が続いていた。新興ジムがのし上がるために、こうした挑戦試合が続く時期は必ずある。岩屋君も周りの選手に影響を受けていた。「中途半端な選手とはやりたくない」とまで言っていた。

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【写真説明】大湾戦に向けて、寝屋川市駅の近くで動画撮影した様子。

 試合は4月24日。大阪での世界戦(寺地拳四朗―久田哲也)と日にちが重なった。ボクシング記者として、世界戦と同日では沖縄行きを断念せざるを得なかった。事前に紹介動画を作ったが、これは今まででベストの出来栄えだと思っている。

「今年限り」の決意

 この頃、岩屋君は「今年いっぱいやり切って、終わろうと思っています」と話すことがあった。もともと「3年でやり切る」と決めて福岡から大阪へ出てきた。充実しすぎて、もう5年目に入っていた。

 私は、それも大湾戦次第だと思っていた。大湾に勝つのも難しいだろうが、手ごたえさえあれば、まだ戦っていけるはずだ。だから「今年いっぱい」の言葉も聞き流していた。木村戦後のスパー動画を見て、さらに強くなっているのも感じていた。

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【写真説明】沖縄へ出発した岩屋君。このミズノのジャージは福岡時代の職場の方から送別の品としてもらった。5年間愛用してきた。

沖縄の敗戦と長引いたケガ

 私が見に行けなかった大湾戦。大阪の世界戦会場で、おそるおそるボクモバの試合結果を開いた。「4回TKO負け」の文字が飛び込んできた。

 後日、映像で確認したところ、地元でモチベーションが高い大湾がゴングと同時に猛攻を仕掛け、岩屋君も時折打ち返して前戦からの成長を見せたものの、4Rに再びめった打ちされたという展開だった。これ以上は危ないと判断した佐々木佳浩トレーナーが割って入り、TKO負けした。

 試合から2日後、寝屋川で会った岩屋君の顔は痛々しかった。まだサンズラスは外せない。飛び込みの喫茶店でランチを食べた。ビニール袋に氷を入れたものを持参し、額や目元に当てていた。氷が溶けて、すぐにテーブルがびしょびしょになった。

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【写真説明】激戦から2日後の岩屋君。

最後は大阪で戦いたい

 この時も、「今年いっぱいで」という話はしていた。少し、現実味が帯びてきたような気がした。

 引退したから書くが、この試合で岩屋君はけがをした。それがなかなか治らなかった。心が折れることはなかったが、体が悲鳴を上げていた。

 スパーリングができない。だから、試合を組むことができない。それでも「もし急に治って、試合が決まったらすぐ準備できるように」と、できる限りのジムワークは続けていた。

 今年いっぱいとすれば、できてもあと1試合。未体験の後楽園ホールや、地元の九州で戦いたいという思いもあったが、「やっぱり最後は大阪府立(エディオンアリーナ)で、応援してくれた人たちの前で終わりたいっすよー」と話していた。

 夏が過ぎ、秋が来て、試合ができる望みがどんどん薄くなっても、練習は続けた。ジムワークだけでなく土曜日朝の走り込み、体幹トレーニング…。

 その間も、岩屋君への試合のオファーは途切れなかった。東京の大手ジム所属の元トップアマ。関西の強打のA級ボクサー。12月14日の井上尚弥の世界戦前座の話まであった。全て岩屋君に伝えることなく、佐々木トレーナーがストップをかけていた。

 そして、残り時間がなくなった。

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【写真説明】毎週日曜日はジムのトレーナーを務めた。

最後まで練習して「やり切る」

 10月に入り、岩屋君は引退を決めた。ただし、自分に誓った通り「今年いっぱいはやり切る」――。試合はしないが、プロボクサーとしての練習は全うする。12月に入って引退を表明してからも、変わらず練習を続けた。

 大阪では介護の仕事を続けてきた。プロ5戦目で試合1週間前のオファーを受けることになった時は、急なシフト変更で職場に迷惑をかけた。その時は「クビになっても仕方ない」と言って試合を取った。私は、その腹のくくり方に感心した。なぜなら彼は「大阪にボクシングをしに来たけんねー」。

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【写真説明】木村戦の2日後、ジム近くの「志むらや」で店主の西村さんと。西村さんは店に食事に来た岩屋君の人柄に惚れ、応援していた。

厳しい時代を生きたB級ボクサー

 戦績4勝5敗。コロナ下でB級に上がり、外国人が呼べない状況で全国のアマ出身者に狙われた。「もう全国指名手配っすよー」と苦笑いしていた。平時なら、持ち前のタフネスを生かしてA級に上がっていたかもしれない。しかし、コロナ下だからこそ将来のチャンピオン候補の木村や大湾と戦うことができたとも言える。

 驚異的な打たれ強さで、止められることはあっても、ダウンはしなかった。「5勝4敗ならカッコ良かったっすけどねー」と言いながら、「自分はやり切りました」と胸を張る。

 30日、岩屋君は福岡に帰る。すでに介護の仕事を見つけ、年明けから働くという。次に会うときは「彼女も連れてきます!」と宣言したが、果たして…。

 しんみりとした別れは好きじゃないという彼の思いをくみ取り、最後は岩屋伝説で締めたいと思います。

①デビュー戦大減量事件

 2018年4月、29歳で迎えたデビュー戦。まだリカバリーなどの知識に乏しかった岩屋君。フェザー級(57.1㌔)で前日計量をパスした後、「回復にはオレンジジュースがいい」という聞きかじった情報をもとに、ガブガブと飲んだ。結果、ゲーゲーと戻してしまい、試合当日に体重計に乗ると増量するどころか「56㌔」。佐々木トレーナーは「何してんの?」。入場時にふらつき、バレないように石田会長の肩を借りて歩いたという。2回TKO負け。

まるぼ

【写真説明】大好きなジムで。「またボクシングをやりたくなるのでは?」と聞くと、「自分は寝屋川石田ジムだからできたんです。だから、福岡に帰ったらもうやりません」と断言した。

②超高級ホテルにジャージ姿で…

 デビュー戦で敗れ、うちひしがれていた岩屋君。家でテレビを見ていると、情報番組で「桜のモンブラン」が紹介されていた。気晴らしに食べに行こうと思って店の住所などをメモした。まだ大阪に出てきて1年。土地勘もなかったし、知り合いも少なかった。メモを頼りに一人で訪れた店は、何と大阪・梅田の超高級ホテル「リッツカールトン」の喫茶店!いつものミズノのジャージ姿で、大きな円卓に案内され、ホットコーヒーと桜のモンブランを注文。「居酒屋に行けるくらいの値段でしたよー」と半泣きだった。

③世界王者並みの「入場の溜め」

 岩屋君は幸運にもデビュー戦から、両選手同時入場ではなく、一人ずつ入場曲つきの登場だった。曲は長渕剛で通した。初陣だからと遠慮することなく、サビに合わせてリングインできるようにタイミングを計った。「まだ行かへんの?」と石田順裕会長が促しても、頑として譲らなかったという。木村蓮太朗戦では曲が始まって1分半、まったく姿を現さなかった。私は「ひょっとして怖くて逃げたんじゃないか…」と心配した。

山中&岩屋 (2)

【写真説明】「おにぎり竜」で元世界王者の山中竜也さんと。

④マスで投げられる

 ガンガン前に出て、ちょこちょこ手を出して相手を嫌にさせるのが岩屋君のファイトスタイル。練習でマスボクシングをしても、基本的に距離が近い。そしてポコポコ当ててくる。極端にしつこい。以前、ジムでマスをしていた時。あまりのしつこさに、同門のX選手が我慢できなくなり、岩屋君が投げられたそうだ(岩屋談)。実は私も岩屋君とマスをしたことがあるが、このX選手の気持ちが分かる。イラッとするのだ。それを岩屋君に伝えると、「自分、スパーはもっと距離近いっすよー」と豪語していた。

⑤つづり間違ってます

 石田会長の現役時代の信念は「いつでも、誰とでも戦う」。キャッチフレーズは「KEEP FIGHTING」で、岩屋君も影響を受けてきた。リングシューズにその文字を入れることを決め、注文書に記入した。愛用して1年半後。フィリピン人トレーナーのジェリーが「それ、何て書いてますか?」と聞いてきた。「キープ・ファイティングやろー」と岩屋君。「それ、違いますよ」とジェリー。シューズの文字は画像の通り。ちゃんと確認して注文しなさいよ…。

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 ということで、福岡に帰っても「KEEP FIGHITHING(ファイイスィング?)」!

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