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福永宇宙という男・後編

「コロナ禍の新人王戦記」

 2020年2月、西日本新人王の組み合わせが決まった。4戦全勝(1KO)でエントリーした福永の初戦は4月19日、大阪で行われる予定だった。

 その後、世の中の情勢は大きく変わった。

 新型コロナウイルスの感染拡大により、国内のプロボクシングは3~6月の試合がなくなった。

 各地区の新人王予選も大幅にスケジュールが変わり、年末の全日本新人王決定戦は翌年2月にスライドされた。医療関係で働くボクサーも多く、東日本を中心に辞退者が出た。

 福永の初戦も相手が変わり、8月12日に大阪・豊中市での無観客開催に。層の厚いスーパーバンタム級は日本一まで5試合ーー。

 大阪の最高気温が35度を超えた真夏日に、長い戦いが始まった。

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【写真】4カ月遅れで開幕した西日本新人王トーナメント。豊中市のローズ文化ホールで、福永は無観客の静かなリングに上がった=筆者撮影

 約10カ月ぶりの試合となった福永の動きは硬く、力が入りすぎて背中がこわばっているように見えた。

 ボディー打ちで削ったが、相手の末継海里(本橋=当時の戦績1分け)もよく耐えた。最終4回にレフェリーストップに持ち込んだものの、会心の出来ではなかった。

 新人王ウォッチャーの私には、大きく分けて二つの見方がある。

 まず、初戦を見ただけで全日本新人王を確信できる選手がいる。そんな逸材を見つける楽しみだ。

 2019年の西日本ならSバンタム級の津川龍也(ミツキ)、フェザー級の前田稔輝(グリーンツダ)がそれに当たる。たった1試合でレベルの違いを見せつけた彼らは、実際にトーナメントを勝ち抜いた。

 それとは別に、まさか勝ち上がるとは思わなかったボクサーの成長を追う喜びもある。

 19年の西日本でいえばLフライ級の表祥(SFマキ)、全日本では敗れたがSフライ級の岩崎圭祐(オール)がそうだった。短い間隔の連戦で、勝つたびに自信をつけて別人のように強くなった。それもまた新人王戦の醍醐味だ。

 その物差しでいうと福永はどうか。初戦で「確信」は持てなかった。

静寂を切り裂いた右ストレート

 西日本新人王の準決勝は9月13、20日に分けて、大阪市のグリーンツダジムで行われた。

 まだ客入れできる状況になく、会場費を抑えるために異例のジム開催が決まった。福永の試合は20日の第1試合に組まれた。

 私は13日も会場で取材をしながら、やはり「気持ちを作るのが難しい環境」だと感じた。

 選手はいつもと変わらずに練習し、この試合にかけている。だが、ジムのリングには花道もなく、控室を出るとすぐに試合が始まってしまう。私はプロテストやスパーリングに近いふわっとした空気を感じた。

 13日のある試合では、頭がぶつかった選手同士が、自分たちの判断で「あ、ごめん」と動きを止めてしまう場面もあった。この日は8試合あったが、全て判定決着だった。

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【写真】西日本新人王の準決勝は異例のジム開催だった=筆者撮影

 迎えた20日。小川会長の指示は一つだった。

 「空気に慣れる前に、最初から倒しに行け」

 相手は桑渕柊耶(岡山・江見=当時の戦績2勝1敗)。豊富なアマ経験があり、サイズも大きい。小川会長も福永も、相手を高く見積もって臨んだ。

 結果は圧勝だった。

 桑渕のジャブは長く、スピードもあったが、福永は頭を振ってことごとく外した。この試合ではディフェンス勘の良さが光った。

 好戦的な桑渕とはガッチリとかみ合い、福永は1回中盤に強烈な右ストレートでダウンを奪う。再開後は一気に攻め立て、再び右で決着をつけた。

 観客のいないジム開催の空気を打ち破った右ストレート。

 数多くのジムへの出稽古を繰り返し、どんな場所でも試合のつもりで戦ってきた。だからこそ周りの空気に左右されることなく、自分の世界に入ることができた。

 試合後、多くのメディアが福永が囲んだ。それが評価の表れだった。私もここで「確信」に近いものを抱いた。

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【写真】西日本新人王準決勝。この桑渕戦で評価を高めた=筆者撮影

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【写真】試合後に取材を受ける福永(右)。スポーツ報知の田村龍一記者(左)ら目の肥えたボクシング記者が囲んだ=筆者撮影

 結果を出し続けることで、支えてくれる人も増えた。

 関西への出稽古の際は、堺市の勝輝ジムが拠点になった。いつも大きな荷物を抱えて移動している福永を見て、手を差し伸べてくれたのだ。勝輝ジムの選手とセットでスパーリングを組んでもらい、一緒に動くようになった。

 この状況での出稽古にはリスクもあったが、高知では実戦ができないのだから行くしかない。その都度、検査をした上で、大阪市内のビジネスホテルに泊まるようになった。費用はジムが出してくれた。

 新人王戦に入るまでは、株式会社広松工業に勤め、建設現場で働いていた。より練習に集中するために退職したが、「いつでも帰ってこい」と送り出してくれた。今もトランクスには「広松工業」のワッペンがある。

 今は有限会社大衆理美容でアルバイトをしている。良心的な値段でカットできる高知ではおなじみの理容チェーンだ。もともと福永のスポンサー企業で、競技への理解が深い。試合のたびに応援ポスターも作ってくれる。

5カ月弱で4試合を乗り越えて

 西日本新人王の決勝は11月1日。会場は関西の「メッカ」といえる大阪市のエディオンアリーナ大阪第2競技場で、ここでの試合は初めてだった。感染状況は一時的に落ち着き、有観客で開催された。

 アウトボクシングに徹する西村連(サンライズ=当時の戦績2勝1敗)を捕まえきれず、判定へ。辛くも2ー1でモノにした。

 強いパンチを当てていたのは福永のほうで、私は「負けはない」と思った。本人は「やりづらく、いい勉強をさせてもらった」。

 両者のレベルの高い攻防への評価だろうか、スプリット勝ちにしては珍しく3賞の敢闘賞に選ばれた。

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【写真】西日本新人王決勝。技巧派の西村連に競り勝った=筆者撮影

 そして12月27日、同じ会場で西軍代表決定戦が行われた。

 今度は無観客。中日本新人王MVPの安西蓮(岡崎=当時の戦績4勝3敗1分け)との試合は、福永の予想通り「バチバチの打ち合い」になった。

 安西の左ジャブは想像以上に伸びてきたが、福永は首の動きとブロックで芯を外し続けた。

 少しずつ圧力をかけ、3回中盤に一瞬のエアポケットを突いた。

 ガードが下がった安西を近い距離から右で打ち抜き、きれいに倒す。ダウンした安西は気の強さを見せて立ち上がったが、福永は一気に詰めた。TKO勝ちで西軍MVPにも輝いた。

 初戦から5か月弱で4試合を全勝(3KO)。無観客試合は全てKO勝ちだった。


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【写真】西軍代表決定戦でMVPに選ばれた福永(中央)=筆者撮影

 「四国初」へあと1勝。2月21日の全日本新人王決定戦では、9戦目で初めてサウスポーとぶつかる。

 相手の東日本新人王、矢斬(やざん)佑季(花形)についてはこう分析する。「冷静に相手を見据えて出入りして、自分のペースに持っていくのがうまい選手。どっちが自分のペースを取れるかの勝負になる」

 サウスポー対策として、出稽古では元WBA・Sバンタム級王者の久保隼(真正)にも胸を借りた。

 後楽園ホールは初めてで、関東に行くのさえ人生2度目だが、不安はない。入門半年でデビューし、4回戦で地元興行のメインを張り、無観客のジムでの試合もくぐり抜けた。どんな状況でも自分の力を出してきた。

若者の顔を変える競技

 なぜプロボクシングにこだわって取材しているのか。そう聞かれると私は答えに詰まってしまう。一言で足りる気もするし、いくつも理由を述べたい衝動にもかられる。

 だが、福永という青年に出会い、一つだけ確信して言えるようになった。

 「これは若者の顔を変える競技です」と。

 私が見たのはデビュー戦が最初だが、そこから見ても福永の顔つきは変わった。入門した日から比べればもっと違う。下に4枚の写真を並べてみた。私が言いたいことは伝わると思う。たった2年数か月でここまで変わるのだ。

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【写真】上段左はジム入門の日、右はプロテスト受験時(黒潮ジムブログより)。下段左は西日本新人王準決勝、右は西軍代表決定戦(筆者撮影)

 この世界での一つの勝利が、若者の顔を変えていく。そこに私を引きつけてやまないものがあるように思う。

 この新人王戦の最中、福永はあまり笑顔を見せなかった。淡々と、勝ち進むごとに研ぎ澄まされていくようだった。

 19日午前、福永と小川会長は高知空港から東京へ飛んだ。ゴングまであと2日。望んだ場所まであと少しーー。 (敬称略)

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