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福永宇宙という男・中編

「私が見た福永宇宙」

 2018年秋に地元・高知でのデビュー戦に勝った福永は、翌年4月に大阪で2戦目に臨んだ。

 相手の岩崎圭祐(オール)はその後、Sフライ級で同年の全日本新人王決定戦まで勝ち上がる選手だ。

 頭をくっつけて打ち合い、ジャッジ3者とも1点差で福永を支持する辛勝だった。福永が普段より1階級下、岩崎が1階級上のバンタム級契約で、お互いにベストではなかった。

 私が初めて福永と会って話したのが、この2戦目の後だった。「大阪に出稽古に来ている」と聞き、じゃあ食事でもしようかと約束した。

強くなるために

  私が黒潮ジムにいた10年前も、出稽古で関西に行くことはあった。週末にトレーナーの引率のもと、何人かでまとめて行く形だった。

    行き先は神戸の真正ジムが多く、私より強いプロ選手たちがボコボコにされて帰ってきた。「こわーっ」と思った。真正ジムは絶頂期の世界王者・長谷川穂積さんが君臨していた頃だ。

 私も誘われたことはあるが、理由をつけて断っていた。

 だが、福永のように単身で一週間ほど滞在し、何カ所かのジムを巡るような選手は初めてだった。

 学生の弟が大阪にいて泊まる場所があったとはいえ、それを無名の4回戦の頃から始めていた。

 最初は心細く肩身も狭かったはずだ。その頃は冨田大樹ら若手有望株がひしめく堺市のミツキジムで世話になること が多かった。

 グローブなどを詰めた大きな荷物を抱えて電車に乗り、「試合のような気持ちで」スパーに挑み、強い選手の練習内容をチェックしてはノートに書き留めていた。それを高知に持ち帰って真似するのだと言った。

 約束した日に2人で行ったのが大阪・北新地の「おにぎり竜」だった。

 弱い先輩の私がしてやれることなどほとんどないが、元世界王者で店主の山中竜也さんに会わせてみたいと思った。取材を通じ、私は山中さんの人柄に惚れ込んでいた。

(注)筆者はボクシング関係者に限らず人と会う時はほぼこの店です

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写真】元世界王者・山中竜也さん(左)と福永=筆者撮影

 帰りに歩きながら福永が言った。

 「山中さんって年は僕と二つしか変わらないんですけど、強い人ってやっぱり普段は穏やかで優しいんですよね」

 私の伝えたかったことは伝わった気がした。

 この頃から、福永には「強い人とは」という視点があったように思う。

 ちょうどその日は3戦目の相手が決まった日でもあった。高知にいる小川会長から「フェザー級の選手だけど、決めるぞ」と福永に電話があった。

 6月に和歌山で試合をすることは決まっていたが、相手が見つかっていなかった。Sバンタム級が適正階級だと分かりつつ、2戦目はバンタム級で、3戦目がフェザー級。

 駆け出しの地方ボクサーはそうでもしなければ試合が組めない。

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【写真】3戦目で入場する福永。和歌山は黒潮ジムの先輩たちが負け続けた「鬼門」だった=筆者撮影

 和歌山には高知からバスがチャーターされ、応援団が来た。のぼりも用意されて花道を飾った。

 もともと1階級上の相手に比べてサイズは小さかったが、足で出入りし、初めてダウンを奪った。

 前に行くしかなかった2カ月前からの明らかな進歩だった。KO勝ちこそ逃したが、私は今のボクシングの原型がこの試合だったと思っている。

 小川会長が「来年は新人王に出す」と言い始めた。

4回戦のメインイベンター

 2019年の黒潮ジムには福永のほか、プロ選手が2人いた。

 一人は中村哲進(てっしん)。軽量級で2勝2敗の戦績を残して引退した後、「子供たちに戦う姿を見せたい」と6年ぶりにカムバックしてきた。

 中村はジムのムードメーカーで、福永にとっては気さくな兄のような存在だった。

 2人で初めてマスボクシングをした時は、「マスでも僕のジャブが当たって鼻血を出すのが宇宙でした」。その後はどんどん強くなる福永に「劣等感しかなかったです」と笑う。

 もう一人は当時、高知南高2年の小谷瑠音(るいん)。勉強も得意で文武両道の後輩だった。

 前年の地元興行は福永だけだったが、今回は3人に増えた。この一年は福永にとって、初めてジムメイトと切磋琢磨する幸せな時間だった。

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【写真】左から小谷瑠音、中村哲進、福永宇宙。2019年秋の地元興行には3人が出た

 10月6日、3人の試合順はデビュー戦の小谷、復帰2戦目の中村、そして4連勝をかける福永だった。

 福永の試合は当初、興行全体のセミファイナルだったが、当日になってセミとメインが入れ替わった。メインに出るはずだった8回戦の選手の帰りの飛行機の都合だった。

 つまり福永は4回戦でメインイベンターになったのだ。

 会場入り後にメインへの変更を伝えられた福永は、顔色一つ変えなかったという。

 先に小谷、中村がKOで負けた。地元で初メインの福永にプレッシャーがかかる状況になった。

 この試合は3戦目の相手とのダイレクトリマッチだった。

 前戦よりもアグレッシブに攻める福永は2回に右ストレートでダウンを奪う。相手のダメージは深く、そのまま10カウントを聞かせた。

 派手にガッツポーズし、1年前とは比べものにならないほどの大歓声を浴びた。

 その渦の中には心配をかけ続けた母も、普段は寡黙な祖父も、離れて暮らす父もいた。

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【写真】2019年秋の地元興行。まだ4回戦ながら3戦全勝の福永(中央)はジムの大将格としてメインイベントでKO勝ちした=黒潮ジムブログより

 これで4戦全勝(1KO)。翌年の新人王戦へ、最高の戦績を引っさげて臨むことになった。

 この頃、小川会長は「取れば四国のジムから初の全日本新人王なんや」と言い出した。

   私は全日本新人王決定戦が始まった1955年から優勝者を調べてみた。確かにその通りだった。

 黒潮ジムでも1980年代に松岡洋介(のちに日本フライ級王者)、尾崎文雄の両選手が「あと1勝」で逃している。

 四国はそもそもジムの数が少なく、ボクシングに限らず若者は都会に流出する。それにしても、今までいなかったんだ――。この話題性で売り出せると思った。

    私はボクシング・マガジンに寄稿しており、編集部に福永のことを売り込んだ。「選手ファイル」というコーナーで取り上げることが決まった。私は取材で10年ぶりにジムへ足を踏み入れた。

    人は入れ替わったが、私がいた頃と変わらない空間だった。福永という選手が現れたことで、私もここに戻ってこられたのだ。

やっと親孝行できるものを見つけた

 食事中の会話と違い、取材となると細かいところまで聞かなければならない。

 大まかなテーマは決めていた。「学生時代は中途半端だった」「20歳から始めた」「地方ジム」。このあたりはアマチュア出身者が席巻する今のボクシング界では異色といっていい。同じ境遇の誰かの励みにもなる。

 福永は一通りの取材を終えると、スマートフォンで試合の動画を見せてくれた。

 デビュー4連勝を決めた地元興行を2階席から映したものだ。KO勝ちの瞬間、リングの外で喜ぶ人たちを指さして言った。

 「この動画は何回も見ています。自分じゃなくて、周りで喜んでいる人たちを見るんです。じいちゃんが立ち上がって手を挙げていたり」

 続けて言った。

 「今まで応援されるような生き方をしてこなかったので、やっと親孝行できるものを見つけました」

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【写真】福永の記事はボクシング・マガジン2020年3月号に掲載された。「四国のジムから初の新人王目指す」――

 私は2019年12月、全日本新人王決定戦の取材に後楽園ホールへ行った。福永が出る翌年のためにしっかり見ておきたいという思いもあった。福永もCS放送を録画し、ジムで何回も流していた。

 特に地方の選手ほど、東京まで大応援団を連れてくる。田舎のジムの選手が勝ち上がることは、それはもう祭りなのだ。

 私は1年後をイメージした。福永と小川会長が、多くの人たちの前で「四国初」の夢をかなえる。

 その時は、そう信じて疑っていなかった。

(敬称略、後編に続く)

 


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