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ナイルの源流・ルウェンゾリ登山記2006

 「次はウガンダのルウェンゾリ山が良かろう」とO隊長が言い出したのは2005年のアリューシャン遠征中であった。遠征中に次の候補地の話になることは今までも良くあったことだが、それにしても「ウガンダ」は唐突な感があった。なんでも、世界遺産のテレビ番組を見たO夫人が「ここならあなたたちでも登れそうね」と口を滑らせたことを、聞き逃さなかった旦那の地獄耳がきっかけらしい。そういえば1996年のアコンカグア遠征を最後に、山頂に到達するということから遠のいていることは確かだ。ナンガパルバットは3度挑んだが落とせなかったし、グリーンランドの氷床探訪も登頂というよりは氷登りであった。カムチャッカのクリチェフスカヤも噴火のため4000m地点で退却し、アリューシャンのマクシン山はルートの選択に失敗しあっけなく敗退。それでも今までの遠征合宿が充実していたのは、登山隊だけではなく、トレッキング隊やフィッシング隊などの複合隊であったため、登頂は逃したものの充実したキャンプを楽しむ事ができたのだ。しかし山岳会としては、最近登山が不調なのはなんとしても挽回しておきたいと思うのも必然的なことではあった。今回は毎度のフィッシング隊もアラスカ、キングサーモンの地へ挑むことになり、ウガンダは登山隊のみの構成となった。
 こうして、最近は高緯度の旅が続いていた福岡登高会だが、今回は緯度0度(つまり赤道直下)のルウェンゾリに遠征することとなった。ケニア山遠征から12年、「アフリカの水を飲んだものはアフリカに還る」という諺どおりであった。空港に見送りにきたフィッシング隊は「これ選別だけど登頂成功したら使ってくれ」と皮肉を交えて激を飛ばしたが、O隊長と私は「今回は山頂に立たんと帰れんごたあな」と顔を見合わせ苦笑した。

秘境ルウェンゾリの探検小史
 毎度のことながら今回も現地情報は少なかった。東京のウガンダ大使館によると日本人の年間査証発行数は400名そこそことのことなので、年間にジャンボ機1機ほど飛ばせば足りるほどの渡航者しかいないことになる。それでも『月の山・ゴリラの山』(敷島悦郎著1994山と溪谷社)を読んでおり、登山のおよその様子は把握することができた。私は、大分の国東半島で自給自足の生活を基本としながら、アフリカなど辺境の旅のツアーリーダーをしている仕事仲間のO.Fにルウェンゾリの情報を求めた。彼は本職の写真家として、ピグミーとの共同生活をしながらの取材などアフリカの奥地に最も精通している日本人のひとりで、20年前のアミン大統領の時代に単独でルウェンゾリに挑んだことがある。当時は情報も乏しく、深い湿地に阻まれ敗退した。その後1997年からこの地を拠点とする反政府ゲリラADF(民主連合軍)の活発な活動を理由に入山禁止となり、2002年まで待ってやっと最高峰のマルゲリータ峰に登頂している。また、今年も取材で入山しエドワード峰に日本人として初登頂した。
 そのO.Fがルウェンゾリの探検小史を解説してくれた。ルウェンゾリが歴史に登場するのは意外に古く、1800年も前にプトレマイオスによって描かれた地図に載っているナイルの水源「月の山」に由来する。ヨーロッパでは長い間、この地理的空白部の「月の山」の実在について議論が盛んだった。この議論に終止符を打つのは、実に1889年のイギリス人ヘンリー・スタンレーが雪を戴いたルウェンゾリ山塊を遠望するまで待たなければならなかった。ルウェンゾリが初めて登られたのは1906年イタリアのアブルッツィ公爵が組織した登山隊によるものである。このときの有名な氷河を抱いたルウェンゾリ・スタンレー山塊の写真はアブルッツィ公爵に同行した山岳写真家ヴィットーリオ・セラによるものである。出発前、山仲間が「ルウェンゾリは私の憧れの山」とセラの写真集を見せてくれた。「いい山じゃないか」と皆の意気が高まった。
 アブルッツィ公爵とセラは1909年にはカラコルムのK2へも登山隊を派遣しており、彼の名はアブルッツィ稜(南東稜)として残されている。また1932年には当時世界をまたにかけて活躍していたイギリスの登山家シプトンとティルマンのペアもルウェンゾリの第3登を記録している。このようにルウェンゾリは単にアフリカ第3峰というにとどまらず、未知の世界への探究心をもった一流の探検家、登山家たちを惹きつけてきた。そして今年2006年はアブルッツィ公爵のルウェンゾリ初登からちょうど100周年の記念すべき年であることは、遠征計画が決定してから初めて知ったことであった。

Mount Stanley in 1906-The highest group in the Rwenzori. Photo taken by Vittorio Sella.

いざカンパラへ
 カンパラへのアクセスはヨーロッパやアフリカの主要都市経由の便となるが、アラブ首長国連邦のドバイ経由のエミレーツ航空が、新しく中部国際空港から就航したのでこれを利用することとした。
 まるで高級デパートのようなドバイ空港から機上の人になると、あきれるほど延々と続くアラビア半島のルブアルハリ砂漠の上を飛び、紅海とアデン湾を結ぶバベルマンデブ海峡あたりを越えてアフリカ大陸に入る。緑豊かな丘陵地帯が続くエチオピアのアディスアベバに一旦寄航。その後、ツルカナ湖上空を通って、シートベルト着用のサインとともに巨大な積乱雲の中に突入し緊張していると、雲を抜けて海ように巨大なビクトリア湖が姿を現し、やがて湖畔のエンテベ国際空港に着陸した。今は懐かしくなったタラップから直接地上に降り立つと、意外に涼しく、すがすがしい気持ちでウガンダの第一歩は始まった。
 ウガンダの首都カンパラは、標高1,150mにあり、ホワイト・ナイルの源流ビクトリア湖を見下ろすなだらかな丘の上にある。19世紀に栄えたガンダ王国の首都でもあり古い歴史を持つ。クーデターが続き長らく治安が悪かったが、今は落ち着いている。カンパラの町の色は、時々道端で見られる高さ数メートルにもなる蟻塚と同じ赤土色に染まって見える。家電のパーツ屋や果物屋、牛肉をぶら下げる露店などが並び、渋滞する車とバイク、自転車は赤土をまき上げている。車の窓を叩くたくましい物売りには閉口するが、渋滞や人混みの割には喧騒を感じないのは、クラクションの音をまったくといっていいほど聞かないせいだと気がついた。ウガンダの人々は思った以上に礼儀正しい国民性のようだ。
 高台のファンファン・ホテルに投宿すると。さっそく「ナイルを飲もう」ということになった。「ナイル」とは、カンパラに到着早々ガイドから聞き出した「うまいビールの銘柄」である。ウガンダ語で「~を下さい」は「パッ~」ということも聞いていたので、さっそく「パッ・ナイル」が口癖になったことは言うまでもない。
 カンパラではO.Sから紹介してもらったジャック和田氏を訪ねた。和田氏は日本車の中古車販売の仕事でカンパラに駐在し、その後現地の嫁さんをもらって定住することとなり、今は「ニュー・ジャック・ツアー」という旅行会社を経営している。今回の登山手続きやガイド手配をはじめ、ホテル、車の手配など一切を和田氏のエージェントに依頼しておいた。ルウェンゾリに通算70日入ったという和田氏は、想像していた山屋のイメージとは違い。きゃしゃで品の良い青年であった。O隊長の「お公家さんのような」とはぴったりの形容である。

RMSとバコンジョ族

 RMS(ルウェンゾリ・マウンテニアリング・サービス)はルウェンゾリ山地国立公園の入り口、カセセ県イバンダ村ニャカレンギジャに事務所があるバコンジョ族のコミュニティーである。ウガンダでは唯一のウガンダ野生生物局(UWA)が直接管理していない国立公園とのことだ。バコンジョ族は「月夜に踊る小人」と形容され、O.Sによるとピグミーの血も混じっているとのこと。もともとバコンジョの人々は狩猟や木材などルウェンゾリ山に依存した生活をおくっていた。現在は国立公園での一切の狩猟や採取は禁止されているため、ガイドやポーターなど観光に携わることで現金収入を得ている。ルウェンゾリの豊富な清流や森の恵みを受けて生活する彼らと生活を共にすると、彼らの清潔さ、勤勉さ、実直さ、けっして豊かとはいえないが、明治の日本人のような気品の高さを感じた。


ルウェンゾリ山群一周「セントラル・サーキット」
 ジャック和田氏は『地球の歩き方・東アフリカ』にルウェンゾリ山地国立公園の紹介として以下のように記述している。
世界中の多くの登山家を魅了してやまないルウェンゾリ山地は、ウガンダとコンゴの国境にまたがり、大きく分けると、スピーク山塊を中心に、北のエミン山塊、北東のゲシ山塊、南のベーカー山塊、西のスタンレー山塊の5つからなる。「常に雪をかぶった高い山から流れる水を集めた大きな湖。あふれ出る水はナイルになる」と記した地理学者トレミーによって「月の山」として西暦150年頃に初めて歴史に登場したルウェンゾリ。その魅力は山の高さだけに留まらない。
 ジャック和田氏に最初に問い合わせたとき「ルウェンゾリ一周はとことん歩く体力と気力さえあればルウェンゾリの自然を満喫することができるが、マルガリータ峰への登頂は氷河やロッククライミングの技術を持っている者以外の挑戦は禁物」とのことだった。具体的なグレードはアフリカの山に詳しくグランドジョラス北壁も完登したこともある登山家・O.Sに確認した。「現地ガイドはルート選択においては信頼できるが、降雪などの状態により確保技術や登攀技術はあてにできないので、自分たちで確保し登攀する能力と、ミックスクライミングの経験があれば、そんなに困難な山ではない」とのことであった。全員登頂は無理にしてもルウェンゾリ山群一周のセントラルサーキット・トレッキング組とアタック隊の双方が同日程で進めるので、状況に応じてアタック隊を決めれば、我々のレベルでなんとかなるだろうと考えた。
 今年はイタリアのアブルッツィ公爵のルウェンゾリ初登から100周年ということでイタリアの記念隊がブジュク小屋を基点に長らく山中に滞在しているとのこと。RMSのアドバイスで、通常の反時計回りでのサーキットでは高所順応日のブジュク小屋が重なるので、時計回りに変更するようにとのことであった。

登山記録

《1日目:6/18》ニャカレンギジャ(1,600m)/ニャビタバ小屋(2,652m) 距離約10km
 7:30カセセのホテルマルガリータを車で出発。オフロードに入り8:25ルウェンゾリ山地国立公園事務所のニャカレンギジャ着(標高約1,600m)。入山手続きをし、荷物の計量。隊員ひとりあたり25kgでそれ以上は追加料金(追加ポーター)とのこと。7名で12個口の荷物はトータルで176kgであった。1kgオーバーで恐る恐る(登高会は荷物の重量オーバーに敏感である)マネジャーのアントゥルさんの顔を覗うと「量ってきたような数値ですね。1kgはまけておきましょう。合格!」とのことで隊長もにっこり。コースのブリーフィングと装備のチェックがあり、5名のガイドを紹介された。ジョセフ(43歳)、ウジア(34歳)、ザファニア(30歳)、アントニ(54歳)、ジョン(59歳)。チーフガイドは誰?と聞くと「チーフはいません。全員平等のガイドです」とのことであった。
 9:55ニャカレンギジャ発。銃を抱えた護衛の兵隊さんが1名同行。コンゴからのゲリラか、あるいはこのあたりに生息するという気の荒いフォーレスト・エレファントの対策だろうか? ちなみに地上最強の動物は百獣の王ライオンではなく、間違いなくゾウである。10:40チェックポスト。10:55国立公園のエントランス着。ここで兵隊さんは「では、以後気をつけて」とあっけなく引き返していった。12:25~12:50標高約2000mで昼食。すぐ吊橋でムブク川を渡り熱帯雨林の中の急登となる。2400m位から尾根上の道となり、岩屋を通過して15:50、2,652mのニャビタバ小屋着。小屋からは北のポータル山の岩峰群が迫力ある。水場は小屋の先の尾根上に山水が引かれている。ポーターが生卵を割らずに運んでくれたので、夕食は卵どんぶりをつくることができた。

《2日目:6/19》ニャビタバ小屋(2,652m)/ガイヨーマン小屋(3,450m) 距離約7km
 6:00起床、気温約15℃。7:00朝食(雑炊)8:15ニャビタバ小屋発。今日からは長靴での登山となる。サーキットの合流点(一周して再び戻ってくる分岐)、ジョンマッテ小屋(5日後に泊まる小屋)への分岐は尾根から一気にムブク川へと下っている。一周の最後はここを登らないといけないのかとNがつぶやく。我々は尾根を西に直進し2,700mあたりから尾根を離れトラバーズ道となる。しばらく竹林の中を進み2,800mあたりからはヒースの雲霧林となりサルオガセがたくさんぶら下がっている。正面に巨大な岸壁が立ちはだかった。12:10ケチュチュ・ロックという岩屋(標高2,990m)だという。ここでランチタイムとする。午後からは急な岸壁や滝沿いの濡れた岩場などすべりやすい難所を長靴で登る。反時計回りの順行では、ここを下ることになり、かなり危なかったのでないかと皆が言う。Nは「私はこんなところはよう下らん。この先大丈夫だろうか」とかなり不安そうである。滝の上部に出ると沢沿いの登りとなり、周りは湿地、沼地である。まだ沼地歩きの要領が掴めず、何人かはさっそく太股まで沈没し沼の洗礼をうける。16:00周りをジャイアントセネシオとヒースの森に囲まれたガイヨーマン小屋(3,450m)に到着。水場は少し下の沢、夕食はカレーライスをつくる。少し高度障害の症状があらわれだす。

《3日目:6/20》ガイヨーマン小屋(3,450m)/キタンダラ小屋(4,027m) 距離約6km
 8:15ガイヨーマン小屋発。ムブク川の上流部を遡る。3,780mのブジョンゴロの岩屋を過ぎると湿地の斜面となる。草の根っこや沈んだ倒木を探りながらの湿地歩きも要領がつかめだしたが油断は禁物である。神秘的で美しいジャイアント・ロエビアやセネシオの大群落となる。見惚れていると底なし沼に腿まで浸かることになる。岩場を登って15:30約4,200mの鞍部を越える。気温は6℃。やや下ってから神秘的な風景の中を緩やかに登っていき、16:10フレッシュ・フィールド・パス(峠、4,215m)に着いた。持病の腰痛が痛んできた隊長はガイドのアントニを手なずけて荷物を背負わしている。アントニの方は頼られて誇らしげである。ここらあたりから最高峰群であるスタンレー山塊が見え出し、サボイア峰4,977mとサボイア氷河が圧巻である。峠から200m程下って17:40雨の中、キタンダラ小屋(4,027m)着。小屋には先着の英国人2人組がいた。エレナ小屋から下ってきたという。英国人には小屋のテーブルを使って先に食事をしてもらう。疲れていたので調理がおっくうで本日の夕食は味噌ラーメン(野菜たっぷりとモチ入り)とする。

《4日目:6/21》キタンダラ小屋滞在(高所順応日)
 夜が明ける(6:30頃)までゆっくりと眠る。昨夜は20:00頃寝たので10時間以上は眠ったことになる。朝の気温3℃。洗濯、散策、ごろ寝、終日皆思い思いにすごす。この小屋の水場はキタンダラ湖に流れ込む沢を利用する。キタンダラ湖は上と下の2つからなる湖で、典型的なU字谷の中にある山上の氷河湖である。谷は西側に開けており、下るとコンゴである。ここから国境線までは僅か3kmほどだ。

《5日目:6/22》キタンダラ小屋(4,027m)/エレナ小屋(4,540m) 距離約4km
 08:40キタンダラ小屋発。気温4℃。下キタンダラ湖からキタンダラ谷のU字谷の左岸を高巻きして真北方向に登っていく、上キタンダラ湖を下に見ながら登る。4,100mに上った時点で昨夜の残雪があり、気温は氷点下となったが、4,200mに登ると谷に日が当たるようになり、温度も急に上ってきた。まぶしいのでサングラスをかける。ジャイアント・セネシオの林と残雪のコントラストが美しいU字谷を進み、谷をせきどめるダムのようなスコット・エリオット・パスに向かって登っていく。西にサボイヤ峰とサボイヤ氷河が近づいてくる。東のベーカー山群エドワード峰4,843mの岸壁は迫力ある屏風のように迫ってくる。12:30スコット・エリオット・パス着。標識には標高4,372mと記してある。まっすぐ北進するとブジュク湖に下るが、エレナ小屋は峠から西に進路を変え、東稜の岩場を登っていく。登ってきたキタンダラ谷を振返るとみごとなU字谷が圧巻である。14:15エレナ小屋(4,540m)着。小屋は狭い岩場の上に橋脚をわたして設置されている。入り口が2つの2間あり合計で10名程度が限界の小さな小屋である。
 明日のマルガリータ峰アタックはO隊長、S、F、S、私の5名とする。N、Kの2名は11時まで待って、もし脱落者があれば共に、それぞれの荷物をポーターに持たせブジュク小屋へ下る。アタック隊はエレナ小屋へ下山し、時間があればブジュク小屋へ下るが、なければ途中ビバーグも含めて上部に残る。その場合ポーターはエレナ小屋かキタンダラ小屋に待機させる、ことと決定。

《6日目:6/23》マルガリータ峰(5109m)アタック
 04:00起床 星空、気温0℃で意外にあたたかい。朝食はラーメン。
 06:30日の出とともにエレナ小屋発。小屋から岩場を行く。ガリーを右に入り小屋が見えなくなるとすぐ浅いチムニーの1ピッチ登攀となる。ここで調子がすぐれないFがギブアップ。O隊長はチムニーを登りきったところで、腰の痛みが悪化したようで下山したとガイドから伝令があった。ここで、S、S、私、そしてジョセフとウジアの5名となった。テラスに出ると2本の残留ハーケンがあった。下りは懸垂下降した方が良いだろうと考える。エレナ氷河の舌端部を上に見ながら右へ回り込み、08:10右端から氷河に上る。ここでアイゼンをつけて、ジョセフ&私組とS、S、ウジア組に別れロープを結び、コンテニアスで行くこととする。ヒドン・クレバス帯を越え、やがてスタンレー・プラトーと呼ばれる大氷原に入る。ここは山上のアイスキャップとなっており、氷質は柔らかくアルプスやロッキーの氷河と少し違い、私の経験ではグリーンランドの氷床に一番近いと思った。アイゼンが良く効き歩きやすいプラトーをほぼ水平に横断する。ガスが出てきて雪もちらついてきた。09:00スタンレー・プラトーの横断終了。アレキサンドラ峰東陵の岩場を越えて、アイゼンを付けたまま岩場をマルガリータ氷河の取り付き点まで下る。09:30マルガリータ氷河の直登開始。双耳峰であるアレキサンドラ峰(5091m)とマルガリータ峰の肩にあたるコルまで、マルガリータ氷河の急斜面(約45度)を登る。心臓が口から飛び出るほど息が苦しい。古い氷河の上に新しい雪が氷化して層ができている。気温が高くなると表層雪崩の可能性がありそうである。ガスはさほど深くはなく雪も止んだようだ。アレキサンドラ峰は手が届くほど近く、氷柱がびっしりと付着している。10:20コルに到着。ここからマルガリータ峰の最後の岩場に取り付く。垂直の壁に鉄のラダーがかけてある。O.Sの話にはなかったので、今年イタリア隊が新しく取付けたものと思われる。この垂直の壁をラダーなしで登るのは困難で、元は横のチムニーがルートであろう。ラダーを登るとフィックス・ロープが張ってあったので、これをゴボウでよじ登り、後続者をロープで確保し一旦全員テラスに出る。ここからフィックスロープにビレーをとりながらトラバースすると北面の広い安全地帯にでる。ここでロープを解除し、11:50ついに山頂へ到達。ガイド、メンバーと握手を交わし登頂を喜ぶ。
 山頂には今年100周年になるイタリア、アブルッツィ公爵隊を記念するレリーフがあった。おそらく数日前にイタリア隊が登頂し設置したのであろう。レリーフの両端にはウガンダとイタリアの国旗が結ばれていたので、その下に日本の国旗を結び付けさせてもらった。出発前日に100円ショップで偶然見つけて購入してきたものだが、両国旗にサイズがぴったりと一致し不思議な縁を感じる。登高会としては久々に海外での登頂に成功で10年前のアコンカグア以来である。そのときと同じようにフルーツ缶詰をこじ開けて、まずはガイドのジョセフとウジアに1缶渡し、もうひとつは日本隊員で食べた。「あまーい」心底から登頂できて良かったと喜びを噛み締める。
 12:30山頂発。13:15岩場を懸垂下降し雪上へ。15:30スタンレープラトー横断終了。最後のチムニーは滑りやすくなっていたので懸垂下降で下る。16:45エレナ小屋着。3名とも疲労困憊し。ブジュク小屋まで下る気力はすでになくなっており、エレナ小屋に泊まることとなる。隊長にはビバーグしても登るつもりだから、下山せずとも心配しないでくれといっていたのでだいじょうぶだろう。

《7日目:6/24》エレナ小屋(4540m)とブジュク小屋(3977m)/ジョン・マッテ小屋(3380m)
 08:15ジョン・マッテ小屋発。ジョセフによれば、下りながらブジュク小屋は見下ろせるので、口笛で合図すれば交信きる。ブジュク小屋には降りずに、直接ブジュク湖右岸に出てショートッカットをしようということになる。ロック・ハイラックスというマーモットの仲間を時々見ながら下る。   

 09:45分岐(4100m)着。ブジュク小屋から長老ガイドのジョンが心配して上ってきていた。隊長に直接ジョン・マッテ小屋へ下ると伝言を頼む。

 12:40アッパー・ビゴ・ボグの沼地に入る。ここから沼地の難所である。所々は木道らしきものがある。ロワー・ビゴ・ボグの方はまるで木道のない尾瀬沼をいくようなのもであるが、長靴での沼地歩行にもすっかり慣れ、ずいぶんうまく歩けるようになってきた。草の根や、倒木の枝が沼の泥の中に隠れているので、ストックで探って、やさしく足を置けばよいのである。

 14:00ビゴ・ハット。15:05ジョン・マッテ小屋着。本隊はまだ到着していなかった。心配をかけただろうからミルク・ティーを沸かして待つこととする。16:00ころ本隊が到着。握手を求めてきた隊長の目には光るものがあった。「久々に俺ば泣かしてくれたな」とシャイな隊長らしい言葉があり、さっそく祝杯が始まった。
 イタリア隊の病人と付き添いの2名がブジュク小屋から下りてきたので奥の一部屋を開放した。高山病で腹の調子がおかしいらしいが、ただの食あたりのように見える。イタリア人なのでカフェラッテをつくってやったが飲めないようなので、ポカリスウェットを提供すると飲んでいた。

《8日目:8/25》ジョン・マッテ小屋(3,380m)/ニャビタバ小屋(2,652m) 約7km

 09:30ジョン・マッテ小屋発。11:00ニャムレジャ岩屋で休憩。3100m地点で昼食。
 15:05ムブク川とブジュク川合流点の吊橋。ここから100mほど尾根に登り、尾根道に合流し、ここでセントラル・サーキット一周が完結したことになる。ガイドが「コングラチュレーッション」と握手を求める。Nが「やっと一週できた」とほっとしている。16:00一週間前に泊まったなつかしいニャビタバ小屋着。今夜は山で最後の晩になるので余った食材は全部使おうと、パスタ2種(カルボナーラと明太マユネーズ)、チラシ寿司、ツナ・サラダ、わかめスープと豪華な夕食となる。

《9日目:8/26》ニャビタバ小屋(2,652m) /ニャカレンギジャ(1,600m)
 朝、ガイドとポーターが神妙な顔をして集合してきたので何事かと思っていると、ウジアが代表してあいさつを始めた。昨晩まとめて渡したガイドとポーターへのチップの金額を公表し、全員そろってお礼に来たのだ。なんと律儀な人たちだろう。隊長が感動してお礼の挨拶(私が通訳)を述べる。卵も割らず、ひとつの荷物にも泥を付けずに運んだポーターを労い、優秀なスタッフに登頂成功のお礼を述べるとともに、バコンジョの人々のふるさとであるすばらしいルウェンゾリの自然を賛美するものであった。ウジアがバコンジョ語に通訳すると歓声があがった。感動的な光景であった。
 08:45ニャビタバ小屋発。12:45ニャカレンギジャの事務所着。Fがもう使わないからとピッケルを、今回登山でトップを歩きとおしたジョセフにプレゼントした。そして9日間お世話になった日本の長靴は全員ポーター達に提供され、ルウェンゾリ山で天寿を全うすることになった。

ルウェンゾリの氷河と山のカミ、キタサンバ
 ジャック和田氏が言ったようにルウェンゾリ山地の魅力は、あらゆる要素が凝縮した自然の美しさにある。沼地の泥との格闘には悩まされたが、それだけ人の手のはいっていない冒険的な山歩きが楽しめた。急峻な岩峰や氷河はアフリカ大陸にいることを忘れさせるものであったが、奇妙な高山植物の風景は、世界の他の山々と異なる独特の景観であった。100周年行事できているイタリア隊の10数名を除けば9日間の山行中に出会ったのは、イギリスの2名とアメリカの夫婦の4名だけである。この広大な山域に僅かな訪問者しか訪れていないのは不思議に感じる。たしかに一般のトレッカーが訪れても不便さだけを感じる辛いものになるかもしれない。それでも湿地は人間が歩けば水草がえぐられ、斜面の泥は水に流され、再生には時間を要するようになる。保護対策も急務であろう。
 クリスチャンが多いバコンジョであるが、土着の自然観や山岳宗教観もあるだろうと思い、山中、山の信仰について尋ねてみた。山にカミはいるか? それは守り神か? それとも悪魔か? ガイドのジョセフは「それは今は話せない、ニャビタバ小屋に近くなったら話してもよい」ということであった。そういえば山でのタブーを和田氏に確認したとき、バコンジョ族は木苺を食べないことと、山のカミ、キタサンバについては山中で話してはならないということであった。
 山小屋ではどこでも我々外国人とガイド、ポーターは少し離れた小屋にそれぞれ宿泊していたが、ジョン・マッテ小屋では隣接しており、その朝、奇妙な光景を見た。普段はひかえめの長老ガイドのジョンが皆を集めてなにやら訓辞をしている。話が終わるとバコンジョの人々はさっと散って、藪や森に入り、小さなごみまで収集しはじめたのである。このことや、彼等の崇高な道徳心はキリスト教の教育ががもたらしたものなのか、もともとバコンジョ族がもっている倫理観が優れているのかは私にはわからない。ニャビタバ小屋が近くなったとき、ジョセフがキタサンバについて語りだした。キタサンバは雪の神でスタンレー・プラトーの雪原の左の方に住んでいる。ルウェンゾリの山や森、水を守っている。実際にキタサンバを見たものも村には多い。山中でキタサンバについて語ると村に災いがある、というものであった。この話を聞いたときは、ヒマラヤのイエティのようなものを連想したが、帰国後調べてみると、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのリチャード・テイラーという人がキタサンバについて以下のように解説していた。
 キタサンバとニャビブヤは氷河で覆われた山の峰に住むバコンジョ族の生命と自然環境を支配するカミで、創造神ニャムハンガが造った「雪」であるナズルルという神の子供である。キタサンバは現在の氷河後退に対し怒りをもっており、それはバコンジョ族が伝統的な習慣を放棄したからであるという。
 帰国後ルウェンゾリの地図をよく見ると、我々がマルガリータ峰にアタックし2泊した最高所の山小屋、エレナ・ハットから間近に眺めた2つの岩峰が、キタサンバ峰とニャビブヤ峰となっていた。Fと隊長が引き返した岩場のすぐ横である。現在、氷河はこの2峰の間まで後退している。まるで、キタサンバとニャビブヤが氷河後退との最後の戦いを行なっているかのようである。ルウェンゾリの氷河はこの100年で84%が失われたという。かつてはキタサンバ峰もニャビブヤ峰も氷河の真っ只中に君臨する神の峰であったのだろう。そしてルウェンゾリの氷河はあと20年で消失してしまうという。バコンジョ族はルウェンゾリの氷河の恩恵により、近隣の民族による侵略やマラリアなど熱帯の病気から免れ、清らかで豊富な水量により農作物にも恵まれてきたという。しかし、近年は旱魃などによる飢饉やマラリアを媒介する蚊の発生も問題になっているという。このキタサンバの怒りをバコンジョ族の近代化のみに責任を押し付けてはならない。自然環境を支配するキタサンバの警告は人類すべてに向けられたものである。今回の神域への登山を許し、見守ってくれたキタサンバには深く感謝したい。




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