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グリーンランド内陸氷床に遊ぶ

  どこまでも「白い世界」だった。いく山越えても「波立つ氷の平原」は果てしなく続いた。初めから目的のピークなどなかった。たまには「出たとこ勝負」の旅もやってみたかった。世界地図を見よ、グリーンランドはまるで、ぬり絵の本のようにまっ白ではないか。思い出はモノクローム、色はあとで付ければよいと「白紙の探検行」はスタートした。
 我が山岳会は過去、ナンガパルバット・ルパール壁に3度も挑んだが、全て敗退した。温暖化の影響なのか予想を越えたカラコルムの「氷河後退」とその地形の変化が読めなかったのも敗因のひとつだ。グリーンランドの厚さ3,000mにも及ぶという圧倒的な氷床のスケールにナンガのうさを晴らそうという気持ちがあったかもしれない。グリーンランドの氷床も後退しているのか?(氷床だから後退とはいわない?)。とにかく「犬橇でも人間橇でもいいから、グリーンランド氷床に行ってみよう」ということに、いつしかなっていた。

 氷床へは西海岸から上陸することにした。グリーンランドは「氷に覆われた大地」だけではない。氷床部とフィヨルドの海岸の間には陸地が露出した広大な帯状地帯が南北に走る。6月、北緯67度のカンゲルルススアーク地域では、「沈まない太陽」の下、動けばTシャツ一枚でも汗ばむ。しかし、肌の露出は巨大な蚊の攻撃を受けるので厄介である。氷が解け出した氷河湖ではその蚊の発生と同時にアークティック・チャー(北極イワナ)が蚊を求め活動を始める。ムスク・オックス(ジャコウ牛)が長い毛をゆらせながら闊歩する草原には、チョウノスケソウの仲間やバターカップ(キンポウゲ)、シャクナゲの仲間が一面に咲き始める。ハイキングトレイルなどは存在しない。どこもが人跡未踏の台地といっても過言ではない。しかし、森林がないので草原はどこでも歩くことができる。踏み跡らしきものは獣の道である。その証拠に時々レイン・ディア(カリブー)が前を横切ったりする。 

 氷床への取り付き点はどうなっているのか。氷壁なのか、アイスフォールなのか、攀じ登るのか、それとも氷河のようにモレーン帯から降りるのか。資料不足でさっぱり判らなかった。したがって、すべて想定して準備した。氷床に到達するだけで2週間の日数を費やす覚悟もしていた。その結果は....、まったく偶然であるが「陸地と氷床が同レベルで交わる」場所が見つかった。ここからは容易に氷床に上がることができ拍子抜けした。しかし周辺のロケーションはすばらしく、氷床が背後に迫り、まわりはお花畑で、草原の小さな丘へのハイキングにも適した理想的な場所であった。この別天地を氷床へのBCとした。このBC周辺の草原の丘だけでも、世界に類を見ないほどの迫力と美しさを兼ね備えたハイキング・エリアといっても過言ではないだろう。一斉に咲きほこる高山性植物、氷床から流れる氷河と氷河湖に崩れ落ちる巨大な氷魂、レイン・ディアの落とした角が散乱する湿地、人間や人工物とはまったく無縁の静寂の世界だ。ここでは100%ウィルダネスの世界が保証されている。  

 さて、我々はいとも簡単に氷床に上がり、氷の上を奥へ進んだ。遠目には短調に見えた「波立つ氷の平原」も中に入ると変化に富んでいることがわかった。氷床上には山脈もあれば流れる川も湖もある。湖は「氷床の宝石」ともいえる幻想的光景で、白夜の静寂な世界をいっそう神秘的にさせる。氷は硬いが滑らないため、白い岩の上を歩いているような錯覚にも陥る。セラック帯に入るとさすがにアイゼンが必要になり、ダブル・アックスで通過する氷壁も出現する。しかし、こんなにすなおな氷壁は今までに経験したことがない。まるでコルクのボードを攀じるかのようにバイルが軽快に打ちこめる。
 あてのない氷床上の放浪ではあるが、出発点にだけは正確に戻れなければ、アイスフォールや巨大な氷河湖に閉ざされてしまう。赤布を付けた笹竿を大量に日本から用意したが、大海で浮を探すようなもので役にたたない。コンパスのみが頼りになる。ここではジオグラフィック・ノース(地理上の真北)とマグネティック・ノース(磁北)とは西偏差で39度30分もずれている。しかし氷床上では地図も空白で無意味であり、磁針の角度だけわかっていればよいと気付いた。   

 氷上でのキャンプで水には苦労しない。我々が「ウォーター・ポット」と呼んだ直径30cmx深さ30cm程の水の穴が至る所にある。おそらく砂塵が熱を吸収して氷に小さな穴をあけ、しだいにそれが集まって穴を大きくし氷を溶かすのだろう。笹竿をさすには氷の表面の直径1cmx深さ5cmほどの穴が利用でき重宝したが、これが成長前の「ウォーター・ポット」である。時々雪の吹溜りがあり雪洞を掘ったりもしてみたが、吹溜りの中にはヒドン・クレパスもあり注意が必要だった。氷床漂白なんて、オーバーユースとは無縁の(ばけげた?)行為なのでキジ(屎尿)処理の規定などない。汚物はそのまま日光にさらしたほうが多少は分解されやすいのではないかとも考えたが、見渡す限り人間がいないとはいえ抵抗があったので小クレパスに埋めた。

 氷床漂白とはいえ山岳会のさがで、どこか高い所に登らないと引き返すきっかけがない。より高い所を求め氷の山に登っては、さらに高そうなピークを探す繰り返し。グリーンランドはお椀に飯を盛ったようなもので、内陸の中心が氷床上で一番高くなっているはずであるが、そんなとこまで行く根気はない。頂上から見渡たす範囲に他に高いものがない、このあたりでの最高地点に到達した。(※ちなみにグリーンランド最高峰は東海岸の岩峰グンビョルン山である。)360°水平線ならぬ氷平線を望む世界に立った。
 氷の山(突起)というある意味で不安定な歪みがあるということは、何らかの原因で氷床が動いていることを意味している。専門家に聞いてみないとわからないが、私の現場での勝手な解釈によれば、表面や内部で融解(拡張)と凝固(圧縮)が繰り返され、密度や圧力の差により氷にずれが生じ、長い時間的スパンで見れば、うねりのような波が起こるのではないかと思う。そうすると動いている氷床上では、いつの日かまた同じピークに立つことは不可能で「この時この場所」とはなんと貴重なひとときではなかろうか。登山で初登は名誉であるが、「終登?」という概念はないだろう。ここでは「初登と終登」が同時に達成されるという誠に勝手な解釈をして、ここをソルト・ローフ(塩の塊)と、これまた勝手に命名して(カンゲルルススアークの近くにシュガー・ローフという名の岩丘がある)、この氷床登山を終了させた。


 氷上のキャンプ で、氷の大平原をまぶしい光の中で眺めていると不思議な気持ちがする。ここに入氷した日の太陽は毎日、今日もまた我々の上を低く回り続けてジリジリと肌を射し、一度も沈まない。昨日と今日そして明日、過去、現在、未来の区別はどこにあるのか。そして、この寝床が静止しているかどうかの証拠は何と比較すればよいのだろう。悠久の氷のうねりの上で氷床を枕に考える日々。次第に時間と空間の認識が危うくなってきた。

 これがグリーンランドなのか。「出たとこ勝負」の「白紙の探検行」は感慨もまた予期せぬものだった。「百聞は一見に如かず」とはいうが、今回は情報も無かったのだから「無聞もまた一見に如かず」だ。この不可思議な感慨の説明は困難でまた無意味ではないだろうか。
「言葉の限界」のもどかしさとともに「体感の意味」を悟った旅でもあった。

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