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アイノカタチはひとつじゃない

こちらを観てから読んでほしい。

お友達でもあり、応援しているアーティストでもある松村貴俊さんの『アイノカタチ』のMV。



この曲はstandfmで何度も聴いているし、すごく痛い、痛みを感じる曲だなとは思っていた。でも、どこかで他人事のような気がしていた。

MVを繰り返し観て、少しずつ少しずつ、自分のなかに詞が落ちてきた。



私はまだ、「早くくたばれ」とは思えない。思えないけど、会うこともできない。会えば私は引きずられる。嫌いじゃないけど、会えない。


お母さんのご飯が食べたいと思う。


お父さんの運転で、祖父母の家まで行く途中に寄った深夜のサービスエリアが恋しいと思う。


それでも時を戻すことはできないし、進んでいくしかない。



私が何をしていようが、もう成人もとうに超えているのだから、放っておいてほしい。私はあなたたちの子供ではあるけれど、あなたたちの物ではない。あなたたちの生きる糧にはなりたくない。


愛された記憶は確かにあるけれど、すべてが汚れなくあたたかいとは限らない。あなたたちの腕の中で、あたたかな思い出として残っているのかもしれない過去の日々が、私の頭の隅ではどこか痛みをともなう傷になっていることも、それが伝わることは一生ないのだということも、言いようのない虚しさと悲しみとして暗く浮かぶ。


できそこないの自分がいることに、歩くことを止めたくなる。


私は地元に帰ると、記憶に残っている駄菓子屋や公園、小学校に吸い寄せられてしまう。私だけがそこに縋り付いているように、今では置いてある遊具が変わっていることも、あなたたちは知らない。



あの頃の私は抱きしめられたかったのか


あの頃の私は愛されたかったのか


今の私にはまだわからない。



抱きしめようとしてくる腕から逃げたいし、愛を伝えてくる声に耳を塞ぎたくなる。

愛されない自分であるということに、どこかで安心しているのかもしれない。

それでも引き離さないといけないし、引き離しているのは自分なのに、保育園で一度だけ、どうしても母の腕を離さなかったあのときの自分が暴れだす。




見ないように、引きずり込まれないように、なんでもないように過ごしている毎日だけど、一気に溢れ出す瞬間がある。


それは耐えがたいほどに苦しく重く、自分が生きていることを、生きていくことを実感する。


それを誰かが叫んでくれることで、私もやっと叫ぶことができるのだ。

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