見出し画像

気を遣う=負担がかかる

「俺は君に気を遣ってないから、つい言い方が雑になっちゃうんだよね」と彼に言われたけれど釈然としない、と友人から相談がありました。「私も彼には気を遣っていないのだけれど、言い方を気にしたりはするし…じゃあこれって私は彼に気を遣っているってことなの?」と。


気を遣う。

確かに見方によってはよそよそしいような空気も感じるし、「気を遣わない=リラックスできて心地よい」というような意味にも感じる。


私にとって気を遣うってどういうことだろう。どれだけ親しい間柄にあっても、相手が傷つかないよう配慮をしたり言葉や態度を考えることは、私にとっては当たり前だけれど、これも気を遣うということなのだろうか?

たとえば誰かに「そんな気遣わんでいいよ」と言うときには、「私のために無理したり我慢したり、あなたの負荷になるようなことはしなくていいよ」と言っている気がする。

たとえば気難しい人と話したあと、「あの人と喋るといつも気遣うんだよね」とため息を漏らす。つまり、あの人と喋ることは私の負担になる、エネルギーを消耗する。そんなところだろうか。

私にとって「気を遣う」は、「気遣い」とそれほど変わらないように感じていました。でもよくよく突き詰めて考えていくと、「気を遣う」は「エネルギーを消耗する、我慢する」と少し消極的な意味合いが強そう。


だとすると、「気を遣ってないから、言い方が雑になる」は、言い訳として成立しないのではないだろうか。

私はあなたに対して、エネルギーを消耗することをしていない。我慢していない。それと「言い方が雑になる」のは、次元が違うような気がする。もしくは、私はあなたに対して、「エネルギーを割く気がない」と宣言しているようなものではないか。

誰かに対して「私はあなたに気を遣っていない」と言える、言っても自然なのは、「私に負担がかかるような状態を作り出していないから、あなたは安心していいよ」と伝えるような場面に限定されるのかもしれない。


ぐるぐると考えた結果を友人に伝えると、彼女のなかでピンときたようで、彼女なりの答えを教えてくれました。

彼が嫌な気持ちにならないように言葉を選んだりタイミングを図ったりと気を遣うことに対して、私はエネルギーを消耗しても惜しくないと感じる。でも、彼から感じるのは「君にはエネルギーを使おうと思っていない」の意味だから、不快感が残ってる。

自分の感情の整理ができたことで、彼女は少しすっきりしたようです。状況は何も変わっていなくても、頭が片付くだけで幾分気持ちが軽くなる。よかったよかった。私はこういうお手伝いがしたいし、何よりこうしてぐるぐると深く考えていくことが楽しい。


今回は友人の許可があるため書き残していますが、サービスのなかで伺った話を外に出すことはありません。「こんなことでも話していいんだ、と一例としてとってもらえたら」と友人からの提案があり、お言葉に甘えて掲載しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?