新井紀子『AI』シリーズを読んで

 昨日、新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』を読んでそれなりに感銘を受けたわけだが、ネットブログなどに挙がっているいくつかの批評の読んでいくうちに、いくつか疑問点が出てきた。以下に、ラフな形ではあるが疑問点のメモを記しておく。

RSTの結果を見ただけで、本当に読解力が下がったといえるのか?

 RSTの設問は基礎的な論理スキルを問うための文章であるが、筆者は「そもそも人はどのようにして文章や論理を理解するか」という認知プロセスの問題について論じていない。果たしてそうした前提なしに、読解力を正確に測るテストを作成することなどできるのだろうか。

 また、確かに設問の多くは教科書や辞書など実用的な文章を引用したものであり、日常生活においてそうした文章を読む実践的な必要性は認められるかもしれない。しかしながら、文脈主義の立場からすれば、あるセンテンスは、前後のセンテンスや書かれた媒体、すなわちコンテクストとの関係に置かれることで初めて意味が成立するということになる。一つのセンテンスのみを抜き出して意味を問うことを、実践的な観点からどの程度正当化できるのだろうか。

 さらに、たとえコンテクストの中に置かれたとしても、読む人によってセンテンスが異なる意味を持つ可能性を考えると、その意味を一義的に規定することはできない、とも言える。「作者の死」の射程についても考える必要があるだろう。

 このように筆者が、認知や言語に関する自らの哲学的な立場を明確に論じないまま、テスト結果から読解力の低下を指摘している点は、少々卑怯なのではないかと思えてしまう(まあ一般書なので仕方ないか)。

読解力が下がることは本当に問題か?

 筆者によれば、読解スキルは、AIが獲得することができないものである。したがって、AIに仕事を奪われないためには、これを獲得することが不可欠である。

 しかしながら、第一に、前述のように、文章とは文脈に依存するものであるという立場や、一義的な意味など存在しないという立場もあり得るだろう。そうした観点に立つ場合、RSTの点数が低いという意味で読解力がないことは、さほど問題にならないのではないか。

 第二に、教科書を読むことが学習の上でそれほど重要か、という問題もある。いまの時代は教科書以外にもわかりやすく書かれた参考書が沢山ある。辞書や教科書のような、余分な説明を省いた無味無臭な文章を無理に読む必要はないのではないか。実際、世界史や倫理など自分の専攻分野に近い教科の教科書を読んでも、説明が省かれすぎていて文章の意味があまり分からない。教科書よりも話の流れや文脈を容易につかむことができる参考書さえ読めれば、勉強するには十分なのではないか。

 第三に、読解力がないと本当にAIに仕事を奪われ、読解力があれば仕事を奪われないのか。筆者が論証しているのは、AIが読解力を獲得できないということだけである。このことから、今後の産業社会においては読解力が不可欠になると断定するのは、論理の飛躍ではないか(というのも、読解力が必要とされない産業構造が生まれる可能性もあるから)。また、たとえすべての人が読解力をつけたところで、その全員が“AIに奪われない職業“にありつけるわけではないだろう(そうした職業に必要な人数は限られているから)。そうした中でも皆が幸福に暮らしていける新しい共生社会のあり方を考えることの方が、「食うための読解力」を競って身につけることよりも重要ではないか。もちろん、文章を読むということが、自己形成、批判的思考、民主的な社会の運営、ひいては各人の幸福にとって不可欠だという議論もあるだろう(ちなみに私は、こうしたロゴス中心主義の議論は必ずしも正しくないと思う)。だが、筆者はそうした立場からではなく、あくまで「仕事を奪われること」のみを問題にして論じている。(認知力の不足が少年の非行犯罪に繋がっているという主張は、『ケーキが切れない非行少年たち』を参照。ここでは、文章の読解力はさほど問題にされていない。)

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