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鼠頭

私の高校生時代の思い出はこれと言って無いが、ただ一つだけ鮮明に記憶していることがある。
それは2年生の夏。7月の中旬、茹だる様な暑さであった。そんな炎天下を私は左耳に白いイヤフォンから流れるQueenの"Bycicle race"を、右耳に車の音を聞きながら、自転車でスカートを揺らしておっちら向かって行った。Queenが大好きな私は興味本位で動画投稿サイトでその曲のミュージックビデオを調べたことがあるが、高校生の私には刺激が強くて到底見れなくて、顔をシュンシュンにしてパソコンを閉じたことがある。
あと3日で開放されることにそわそわしていた私達は、皆揃って好きであった倫理学の授業でさえも上の空であった。
私の通う高校はすこぶるケチで、空調は疎か、扇風機すら設置しない始末である。それとは反対に職員室は空調でキンキンに冷えている。生徒の立ち入りは禁止だから、皆何かと理由をつけて担任を呼び出して職員室から出る冷えた空気を吸っていた。
私達が灼熱地獄で味わった苦しみが、あの忌々しい奴らの快楽に還元されていると思うと大変癪だった。だがそれもあと3日で終わるのだ。この生物学の授業を乗り切ればあと2日である。
私達の生物教師は、比較的好かれている方だった。寝ていても叱られないし、こっそり他教科の課題などをやっていても許される。だが彼女も彼女なりにそれなりの策を練っているらしい。授業の中継地点に1分程の休憩を取り入れたり、生物室で飼育している生き物を披露したりする。
その日、彼女はネズミを持って来た。メダカを30匹程飼えそうなくらいの大きさの水槽に入った、両手に乗る大きさの、でっぷりと肥ったアルビノである。かさかさと弧を描きながら水槽の中を走り回っていた。頭をガラスにぶつける度に教室にゴツンと音が響き、クラスの皆が笑った。鼠は立ち上がって水槽から抜け出そうとするが無駄であった。仮にもう一体いて、そいつを踏み台にすればこのアイスの様に溶けた教室に革命を起こす事ができたであろう。
アブラゼミがジージーと、庭にある椎の木に留まって鳴いていた。私は前列の人らに従って列に並ぶ。線香の匂いが鼻を突く。
「水槽から出してみても良いですよぉー。逃げないように気を付けてくださいねぇー。」
と、間延びした声で左端の席の生徒に渡した。その途端、生徒達はわっと声を上げ、ネズミを弄んだ。尻尾をつまんで持ち上げたり、軽くデコピンをしたりと、散々な扱いであった。とは言えそんな私もそのうちの一人で、徹底的に鼠と遊んで清々としてから、後ろの席に回した。鼠はぐったりと横たわっていた。教室の窓から見る山々は蒼翠としていた。手持ち無沙汰になった私は、仕方無しに先生の声に耳を傾けた。
暫く授業を受けていると、「エッ!?」という声が突如響いた。その声がしてコンマ5,6秒だろうか、私の右斜め後ろから生温かい水のようなものがかかった。パッと水の出処を振り返ると、U君がその席に座っていた。
U君と私は同じ小学校、中学校の同級生だった。しかし、どういう訳か話した事はほとんど無い。私の目線から見た彼は、極めて模範的で、少し物静かな優等生という印象だった。幼い頃から博学多識、運動神経も良く、よく運動会の選抜リレー選手になって活躍していた。友人には優しく、目上の人には礼儀正しく、先生から好かれていた。
ここだけの話、地域の新聞の「学校の優等生」のコーナーに彼が載ったことがある。そんな時にも彼は驕らず、ただ、ニコニコと座っているだけだった。そのせいか、女友達と話をしていても、彼はいわゆる「良い人止まり」であり、恋人関係の話題に出ることは無かった。
そんな彼の口の周りは血で塗れており、机の上には赤と白のコントラストを織り成す頭の無い鼠がぐったりと横たわっていた。女子生徒の悲鳴と、男子生徒の責め詰りの声。先生が卒倒する音。私はEちゃんから貰ったハンカチでその"水"を拭き取りながら、阿鼻叫喚と混沌の教室を呆然として見渡していた。そんな中でただ一人、U君だけは静かに前を見ながら姿勢良く席に座っていた。Eちゃんは「そのハンカチあげるよ」と言ってくれたが、私は帰るや否やそのハンカチをなるべく見ないようにしてごみ箱に捨ててしまった。かかったのも、拭いたのも水だということにしておきたかった。
ふと右を見ると、先程までうるさく鳴き喚いていたアブラゼミは、太陽と反対の方向へ飛んで行ってしまった。私は座布団に座り直す。また僧が経を読み始める。
夏休みが明けると、U君は学校へ来なくなった。担任曰く、彼を幾ら責め立ててあんなことをしたのかと問いても、口を噤んで何も答えなかったという。実は誰かに以前からいじめられていて、罰ゲームとしてやらされたのだろうか。嫌、それはあり得ないか。寧ろいじめられていたのは件の後である。彼が完璧で普段から皆に好かれていたこともあってか、残りの2日間でされたあれこれに苦しんだのだろう、もう9月には来なくなってしまった。
さて、その鼠は果たしてどうなったのか。白茄子の様にU君の机上に鎮座していた肉塊は、生物教師とU君の手によって中庭の大きな木の下に埋められた。頭はというと、彼が飲み込んでしまったらしい。流石にこれにはあとから聞いた私も気分が悪くて、朝食べたコーンフレークを戻しそうになった。

U君の葬儀が終わる。最前列でシクシクと泣く両親が私達に礼を告げた。私達、と言ってもほとんど私と小中学校の担任くらいのものであった。高校のグループから届いた訃報だが、誰もがあの件を思い出して(口には出さなかったが)、行きたがらなかった。では、なぜ私がここに居るのか。

私は、一度たまたまU君を見かけた事がある。一人で帰路を歩いていると、商店街の遠くで彼を見つけた。自分の方向へ向かってくる。彼と鉢合わせになるまでの数秒間、彼に声をかけるか知らないふりをするか本当に迷った。いつもの私なら、知らないふりをしていたと思う。その時の私は、少しだけ、おかしかったのだと思う。
「U君……久しぶり」
U君は顔を強張らせた。だいぶ変わっていた。丁寧に整えられていた髪の毛はボサボサになり、無精髭も生えていた。
「いま暇?奢るよ」
私は鼠の頭を掴んだU君の手を無理に引き、ハンバーガー店におもむろに連れていき、そこまで減っていないお腹にハンバーガーを詰め込んだ。その店ではネズミの肉をミンチにしてバンズに使っている、という根も葉も無い噂話を思い出し、必死で吐き気を堪えた。
そして、互いに飲み物だけになったとき、話を切り出した。なぜ、あんなことをしたのか。話をしていないとはいえ、小中学校を共に渡り歩いた仲で、きっと彼は話してくれるという自信があった。
「別に皆に広めようとかじゃ全然無いの。」
「じゃあなんで」
私のイメージよりもずっと低くしゃがれた声でU君は聞く。私はぎょっとする。
「………私の、単純な興味。だめ?」
U君はゆっくりと口を開き話した。
「分からない」
「え?」
「僕にもよく分からない。衝動…っていうのかな。ホームで待っていて電車が来た時、飛び降りたくなるだろう?受験の面接で、発狂したらどうなるだろうと思ったことがある?……そんな感じ。」
しばらく沈黙が流れた。
「……先生方は理由が分からないって仰っていたと思うけど、それは僕にだってそうだ。こんなこと先生方に話しても、訳の分からない目で見られるだけだろうから。今、僕は竹中さんを信頼して赤裸々にこう話してる」
「………うん」
皆に慕われて"いた"U君が私を信頼していると聞いて、少し嬉しくなった。
「はっきり言って、もう思い出したくも無いよ。何であんなことしちゃったんだろう。ねぇ、教えてよ!なんで僕はあんな馬鹿げた真似をしたの?あの一瞬の衝動のせいで僕は学校に行けなくなって、授業もついて行けなくなった。皆から嫌われた。信頼を失った。きっと高校も卒業できないだろう。親からも疎まれているんだ。僕はどうしたらいいんだ。一体……」
まくし立てると、U君は次第に声を震わせて嗚咽を漏らした。
その後私はどうしたのか、U君とどう別れたかをよく覚えていない。ただ、この事は決して誰にも喋らないということだけは心に決めていた。
私がこの事を言えば、皆はU君の葬儀に来ただろうか。いや、そんなこと無いだろう。こうしてきちんと葬儀に行って彼の供養をするのは、興味本位で件の動機を聞いた私なんかを信頼してくれたU君に対する手向けだと思う。
私は静かに部屋を出た。外に出ると、U君のケムリが煙突からするりと出ていた。私はきっとU君のことを嫌でも忘れないと思う。そして、私だけに話してくれたあのことを、誰にも言うことなく私もケムリになるだろう。家に帰って、またあの時の彼の言葉を咀嚼しようと思う。私は自転車を漕いで家路に向かう。

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