鬼武者

「怖いんです」
彼はうつむいてそう告げた。男の隣では3m程もあろうかという鬼が目をギョロつかせ、舌なめずりして男を見つめる。両手にはナイフとホークを持っている。
「怖いって、その鬼が?」
「違いますよ」
少し語調を強めた男が答える。
男はずっとつむっていた目を開き震えた声で話し始めた。
「味噌まみれの赤ちゃんが、部屋の四隅から落ちてくるんです…慌てて受け止めるんですけど、既に遅いんです。落ちた赤ちゃんは砂のように崩れて地面に染み込みます」
ふむ…どうやら精神に何らかの異常があると見て間違いないようだ。車もボロクシャだし。薬でもやったか?
「とりあえず、署まで来て」
男は私の手を振り解く。
「嫌だ!僕は殺される!」
一気にわめき散らすことで、男の口から泡が吹き出る。泡はシャボン玉となって空をふわふわと浮かび出した。鬼がでかい図体に似合わない「キャッキャ」という高い声でシャボン玉を追いかける。
「ほら、待ちなさいクリス松村。それは玩具じゃないよ」
鬼の名前はクリス松村と言うらしい。飼っているのだろうか。そうこう考えている内に俺は突然、頭に妙案が浮かんだ。
「君のシャボン玉、いくらで買い取らせてもらえるんだい?値段によっちゃ、君を見逃してやってもいい」
男は立ち止まり、こちらを見つめる。
「…それ、本気で言ってるんですか?」
「でなきゃこれまで一緒に漫才やってねえだろ」
俺は男と見つめ合う。刹那の静寂。
「へへへへへへへ」
俺たちが笑うと、観客もドッと湧き上がる。

「いやぁ今日も大けいしょう、だいっ、大盛況だったな」
びしょびしょに濡れた頭をバスタオルで拭きながら男が笑顔で答える。だが私の表情は暗い。
「あぁ。…でももうすぐ潮時かな。クリス松村に日本語が少しずつ通じなくなっているんだ……演技指導すらままならない。雑技団を辞めざるを得なくなるのも遠い将来じゃあないだろうさ」
私はゆっくりとベッドで目を開いて眠るクリス松村だった鬼を撫ぜる。男は黙って、悲しそうな顔でそれを見つめる。
鬼のコントで一斉を風靡した「鬼武者雑技団」は、その千葉公演が終わった夜に突然姿を消した。鬼の正体も、三人(もとい二名と一頭)の行方は、誰にも分からずじまいであった。鎖に繋がれたジョーンは毎晩遠吠えで彼らの名前を呼びながら、彼らの帰りをいつまでも待ち続けている。

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