臆病者ほどリアルっぽいのが好き

スタンフォード監獄実験はウソ

(既知の人には退屈かもしれない)
1971年アメリカのスタンフォード大学で行われたのが、心理学史上、悪名高き監獄実験である。
二十一人の学生を、十一人の看守役と、十人の受刑者役に分けて、刑務所に見立てた施設でどういう言動を行うのかを観察したものである。
同年齢の学生同士であったが、看守役はその役目を理解し、受刑者に次第に暴言を吐くようになり、受刑者は無気力に従順になっていった。
人間は社会規定の中に入ると、たちまちその役割に順応し、残酷なこともしてしまう。この衝撃的な結果に対して、発表当時から、最近まで人間の特徴をとらえたものとして、引用されてきた。
ところが真っ赤なウソだった。
スタンフォード監獄実験について、まことしやかに語る人がいたら、こう尋ねよう。
「それで、今朝から何杯飲んだ?」
実際には実験を行なった心理学者ジンバルドーのアシスタントが、刑務所長役を演じており、看守役たちに受刑者に厳しくするようにと指示していたのだ。
つまり人は権威を持てば、残酷になるだろうという憶測を、裏付けるように仕込んでいたヤラセにすぎないのだ。
がっかりである。
推測が証明されたのではなく、憶測を裏付けるように仕込んだヤラセが、科学などといえる訳はない。
すり鉢の底に金箔を貼り、それを白で塗装する。スポンサーの前で熱湯を注ぎ、塗装が禿げれば、たちまち錬金術の完成であるのと同じ。それは魔法でも科学ではなく、手品でしかない。ワクワクドキドキ以外を期待してはいけない。
だが、問題はこうした非科学的なことでも、ショッキングな内容ゆえに、いつまでも事実であるかのように人口に膾炙することだ。ネタバレをいくらしても、いまだに人間の残虐性を証明したこととして、動画で紹介されている。無責任な拡散で、悪意はないのだが、無知は罪である。
真実など見たくない。冷静に考えて分かることより、ショッキングな出来事をたくさん知っておきたいというのだとしたら、それは頭がいい態度とはいえないだろう。
では、なぜ、その実験を行われる必要があったのか。
スタンフォード監獄実験は仕込みであるが、その元ネタがあり、それを再現することが必要だったのではないか。

元ネタはアイヒマン実験


元ネタは1962年にアメリカ・イエール大学で行われたアイヒマン実験(ミルグラム実験)と呼ばれる心理学の実験。
ナチス政権下のドイツで、ユダヤ人収容所に勤め、多くのユダヤ人を虐殺したアドルフ・アイヒマンが戦後アルゼンチンで逮捕される。
ヒトラーの優生思想に毒された、異常者だと思われたアイヒマンが、逮捕してみると、実は少々真面目すぎるくらいの小市民であることに、動揺が広がった。
異常者でもないのに、なぜ残酷な虐殺を行ったのか。
その検証実験が行われた。
先生役は単語を読み上げる。
生徒役はそれをできるだけたくさん、正確に記憶する。
もし回答を間違えれば、実験主催者の指示のもと、先生役は隣室の生徒に対して電気ショックのスイッチを入れるというものであった。
ここで行われたのは、罰によって生徒役の記憶力を測るというものではない。目的は先生役であった。
電気ショックのボリュームが微弱なものから、危険なものまであると、明確に記されているのに、先生役は実験主催者の指示にどこまで従い、電気ショックのスイッチを入れるかであった。
生徒役と実験主催者は最初から連携しており、電気ショックのスイッチが入った瞬間、生徒は悲鳴をあげることになっていたのだ。
実験結果は、先生役を演じた被験者全員が、ためらいながらも、最後は危険なレベルにまで電流をあげてスイッチを入れた。
つまり人間は残酷になってしまったのである。
一般的な道徳を持ち合わせている人間も、残酷になるという衝撃的な事実が心理学に波紋を広げた。
しかし、単に人間は権威や命令に弱いという結論ではない。
以下の三つが揃えば、人間は凶行に及ぶことがあると証明されたのだ。
1.犯行を犯す理由がある。(心理学の実験に参加し、それによって研究がすすむと理解している)
2.犯行を犯す機会がある。(電気スイッチの前に座って、それを操作できる)
3.犯行を正当化する理由がある。(自分の良心ではなく、実験主催者が命じられた)
現代では、この三つから、犯罪抑止に用いられている。
軽犯罪を犯した青少年は、犯罪者や反社会的勢力と関わらないようサポートすることで、これら三つを避けることができ、更生しやすいというのだ。

スタンフォード監獄実験を推理する


アイヒマン実験には仕込みはなく、スタンフォード監獄実験には仕込みがあった。
前者によって、犯罪心理学は具体的な指針を得ているのに対して、後者は偽悪なトリビアしか提供していない。
では、なぜスタンフォード監獄実験が必要だったのか。
米ソ冷戦下でかつてのナチスのように、共産圏をカルトのように捕らえるのではなく、共産圏にいる権力者もまた、アイヒマン同様に凡庸な人間であるが、人間が本来凶暴であるから、国民を虐げているという、心理学っぽい主張をしたかったのではないか。
もしくはジンバルドー自身が、アイヒマン実験のシンプルにリメイクをして、話題になりたかったか。

恐怖は本能だが、本能でしかない

ハリウッドの脚本術で面白い記事を読んだ。
人はなぜストーリーを見たり、読んだりするのか。
これまでは現実社会と関係のない、フィクションを愛好するものだと思われていた。
ところが実際は逆で、リアリティを求めて、フィクションを愛好しているというのだ。
つまり古代の神話を口承していた時代から、生存欲の反映として、成功者の話や、不幸になった話を人類は求めてきた。
どの民話にも、必ず試練が訪れる。結果がハッピーであれば成功譚なので模倣しようと記憶し、アンハッピーであれば失敗談なので危険予知として記憶しようとする。
この姿勢が世界中の文明で、神話を持つ理由と言われている。
そこから突き詰めていくと、ホラー映画が説明できる。
残酷な死に方をする人間を見ればみるほど、その情報を記憶し、自分はそうならないようにしようとする衝動が起こってくるのだ。怖いからいいのではなく、怖いけど、有益な情報があると脳が錯覚して、興奮するようにできているのだ。
比較して考えれば、明確である。
1.アメリカで、肉感的な二十代の男女集って、人里離れたリゾート地で深夜までパーティをしていると、殺人鬼に次々襲われる。
2.東南アジアで、不衛生な水を飲んだために幼い妹をなくした七歳の姉が、有害物質の流れるゴミ置場でめぼしいものを拾って老婆とともに暮らす生活費にしている。
どっちが残酷で、リアルな世界かは明白だろう。
リアルなどどうでもよくて、分かりやすい恐怖があるかどうか。リアルではなく、リアルっぽいものがいいのだ。後者には簡単に怖がるなんて、お気楽な楽しみはない。
恐怖は媚薬であり、本能を刺激してくれる。だが、一方で本能でしかない。
これも脚本術の記事にあった。
恐怖という本能を持たないのなら、人類は生き残れなかったのだ。
洞穴に隠れて眠っている時に、足音が聞こえた。狼かもしれないと身構えたものが生き残り、明日は鹿肉にありつけるかもと二度寝した者は生き残れなかった。
だから、衝撃的なニュースや動画を目の当たりにすると、本能が満たされるのである。
だが、満たされるのは本能に過ぎない。
ああ、お腹いっぱい。ああ、あったかい。ああ、眠たい。シグナルの出所は生存欲を司る海馬である。
スタンフォード実験はそうした、本能で感じたい恐怖(人間はどこまでも残酷になる)を証明したかのようなパフォーマンスとして、長く伝えられてきたし、残念ながら、これからも伝えられるのだろう。
冷静に考えてみよう。
恐怖によって身構えることは、本能であり、仕方ない。
しかし本能に従って、見境なく食べ物を奪い合っていたのでは、それは文明社会ではない。木の上からせっかく降りてきたというのに、木の上にまた登ろうとしているようなものだ。
人類史上、最弱なホモ・サピエンスがなぜここまで繁殖できたのか。
頭脳も、体力的に優れたネアンデルタール人より、弱くてアホなくせに、生き残れたのは声帯が大きく、複雑な発音によって、情報共有ができたからである。
ショッキングな情報を好むことは、一見、先見の明があるように理性的に見える。
しかし実際はその逆。リアルっぽいホラーを好む感覚の域を出ない。
客観的に自分を疑うことを怠けて、お腹いっぱいに食べたいとか、おっぱい揉みたいと騒ぎまわっているのと同じなのだ。
思い出して欲しい。クラスに一人か二人、心霊写真集や恐怖ものの漫画を密かに持ち込み、得意げになっているのがいたことを。
彼、彼女の語ることはエキサイティングに聞こえることもあったが、その話だけで一年間もっただろうか。遠足も、運動会も、卒業式もあった。恐怖以外に取り組まないといけないことは、大人になればもっとあるのだ。
スタンフォード監獄実験に象徴される、ショッキングな実験結果は、本能を満たしてくれる。
そして、それがヤラセだったと理解することで、初めて理性的な知識欲が満たされるのだ。

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