憲法記念日だからって、憲法の話がタブーだなんて

公文書館で傷ついたこと

数年前に、憲法記念日に東京を訪れる機会があったので、思いついて、国立公文書館に出かける。
目的は一つ。
展示してある、現行の日本国憲法の原本を配管することであった。
文書としての、骨董価値はない。ましてやテキストデータは簡単に手に入る。いつもの先生と称される検索窓に「日本国憲法」と検索すると、1件目がそれである。
その最初に紙になったものが、国立公文書館に展示されている。憲法記念日は確か無料であった。
そのせいもあるのか、とにかくたくさんの人だかりであった。
いくつか博物館に出かけることがあり、王羲之や顔真卿などの書に対して、たくさんの人が押しかけたが、それと同等か、それ以上に人が集まっているのだ。
繰り返すが、骨董価値も美術的価値も、何もない、日本国憲法のオリジナル文書で楷書体で書かれただけのものなのにだ。独立宣言文のような、アイデンティティに関わるようなものではない(アメリカにとって、独立宣言文は国家としての宣言文でもあった)。
日本は先に、自前の大日本帝国憲法を作った。それを廃棄して別に更新した、国産憲法ver.2なのにだ。
先頭を遠目にみて、納得した。
第一条から、執拗に読みふける人が立ち止まるのである。しかも、見終わった後、列に再度加わり、また立ち止まって読みふけり、次の人を通せん坊するのだ。
「やりましたね」 
と、語っている、年配の男性二人の会話が聞こえた。
「これだけ人が混んでいると、国民が憲法に関心あることを示せたんではないですか。さすがに」
何が、さすがにだ。
つまり彼らの目的は、公文書館をだだ混みにして、素人が気まぐれに覗き込もうとすることを阻み、メディアに日本国憲法への国民の関心の高さを印象付けるというのだ。
そのために何度も列に並び直して、その後ろを邪魔するのだ。
憲法への関心が高いとどうなるのか。
改憲に対して慎重になると、思っているのだろうか。
そんな裏工作めいた手段を持ち出さないと、憲法は守れないのだろうか。
不愉快になって、憲法原本を一瞥すらせず、退館した。
改憲と、護憲と、いずれも意見はあるだろう。どちらが是か非か、それぞれ意見があるだろう。
だが、呪術として崇拝するのは良くない。

お題目とお念仏

日蓮宗にお題目という修行がある。
諸教の王と呼ばれる、法華経(サッダルマ・プンダーリカ・スートラ。正しい白蓮華という教え)には、仏教の全てが網羅されており、そのタイトルを唱えるだけでも功徳があるという信仰だ。
ちゃんと方便品第二に、この経典を読誦し、崇拝するものは功徳を得るだろうと、釈尊自身が説明していることを根拠にしているのだ。
浄土宗や浄土真宗に念仏がある。
前者では、南無阿弥陀仏と一言唱えるだけで、死後は地獄に落ちず、現世での悪い行いを帳消しにしてくれると説く。後者では南無阿弥陀仏と唱えすらしなくても、阿弥陀如来は全ての人間を救うと決意したから、助けてもらえる。その感謝として唱えようと説明する。
題目や念仏を、蒙昧な人が唱える呪文だ思ったら、大間違いである。ちゃんと信仰上の裏付けがあってのことである。
それより蒙昧なのは、日本国憲法の呪術である。
憲法に宗教的な根拠は一切ない。むしろ逆。国家の運営のルールブックである。
それを一言半句変えずに、そのまま継承していくことが平和になるというのは、残念ながら呪術でしかない。
9条を変えるにしても、変えないにしても、一切触らないというのは、理性的な姿勢ではない。ましてや、功徳を人々に回向して、周囲の人を助けたい、自分の見聞の及ばない不幸な人がいれば、少しでも苦痛が和らぎますようにと願う、宗教的行為からも程遠い。
そればかりか、戦前よりもひどい。

統帥権の間隙をついた満州事変


大日本帝国憲法では大元帥は天皇である。軍の最高権威である。
満州事変はこの隙間をついて、発生した事件である。
昭和六年(1931年)に、中国東北部(当時の満州)で、日本が出資して出来た、南満州鉄道株式会社の鉄道が爆破された。それを守ることを名目に、日本の関東軍が満州全土を支配したのである。
外国に駐留しているといっても、関東軍は皇軍と称されるように、天皇を頂点にいただく日本軍の一つである。
ところが、昭和天皇自らが外国に関東軍の視察に直接出向くわけがない。状況を直接調査することなど、ありえない。それは大臣の仕事である。
では、大臣が進撃を黙認するような人物であればどうなるか。
現場の人間が暴走するに決まっている。チェック機能が甘くなれば、現場は当然独断先行する。
関東軍の将校たちが、この法的な隙間をついて、暴走したのである。
これに対して、内地の陸海軍が憤慨するかというと、その逆。
陸軍は盧溝橋事件を起こして、上海に進出する。大日本帝国は何のビジョンもなく、短期的な手柄を得るべく、周辺を侵食しはじめるのである。
つまり統帥権の定義が明確になっており、外国に駐留した軍がどうすべきか明確になっていたなら、戦争はそもそも成り立たなかったのである。
その統帥権や、外国駐留部隊を従わせるルールが、憲法である。
ところが現行の日本国憲法は武力を放棄する、という名目で軍隊を持っていない。
自衛隊という軍事にそのまま転用できる組織は、憲法上は存在していない。
災害有事救助隊とか、国防軍とか、いくらでも定義できそうだが、一切しない。そもそも存在しない組織によって、我々は災害時に給水を感謝しているし、土砂崩れになった家屋を片付けてもらっているのだ。
自衛隊員がかわいそうだとか、センチメンタルなことをいっているのではない。彼らは存在していないのだ。
ということは、彼らが何かの陰謀に巻き込まれて、いざ国民に対して銃口を向けたとしても、それ取り締まることができるのは、障害や、殺人容疑で取り締まることのできる、警察だけなのだ。いや、国内ならいい。海外に派兵されて、そこで紛争に巻き込まれても、戦闘できない。自分だけは弾丸が当たらないことを願いながら、物陰を伝って帰ってくるだけなのだ。
いや、何より自衛隊自身が、海外で武力を用いて、外国の軍隊を制圧しても、日本国は何もできないのだ。そもそも存在していない組織を、取り締まる法律がないのだ。
大日本帝国憲法は軍を管理できたが、それよりバージョンアップしたはずの日本国憲法では、取り締まりすらできない。その状態が七十年続いたからといって、これから満州事変を起こしたよう人間が、未来永劫出てこないと考えるのは、あまりに楽観的すぎる。
憲法に明記をしていないとはそういうことである。
軍隊の存在を認め、それを管理するために、行動を制限する。そのルールを明記するのが憲法である。
改憲派と護憲派、どちらの意見も尊重している。どちらも正しいと思う。
ただ議論しないで、触らず、ケガレがないようにすれば、平和が成就するというのは、民主主義国家の運営上も、宗教上も、まっとうな考え方ではない。
憲法改正を考えるべきか、否かという話題すら、感情的になって、相互に意見交換できない人がいる。幸い身近にはいないが、いたとしても、ルールブックを盲信している人とまともに、意見交換していける自身は、少なくとも自分にはない。

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