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シカゴ・シーン

今回はシカゴ・シーンについて語りたい。
1955年、NYのブロンクスで生まれたフランキー・ナックルズは、ファッション専攻の学生だった10代の頃から当時の友人であったラリー・レヴァンと共に、「The Sanctuary」、「The Loft」、「The Gallary」、「Continental Baths」といったディスコクラブへ頻繁に通い始めた。やがて、二人はDJとしての活動をスタートさせ、73年にラリー・レヴァンが「Continental Baths」のメインDJを務めると、一方でフランキー・ナックルズはティー・スコットがレジデントDJを務める、「Better Days」で月曜と火曜日にDJを始めたが、客の入りがイマイチだったため解雇された。
1977年になると、クラブオーナーのロバート・ウィリアムズに招かれ、シカゴ市内のサウス・ジェファーソン・ストリート206番地にて1977年に営業を開始し、のちに伝説となるクラブ「Warehouse」のオープニングナイトでDJを務めた。その後、「Warehouse」のレジデントDJのオファーを受け、フランキー・ナックルズはNYからシカゴへ活動拠点を移し、82年までレジデントDJを務め、当時会員制のマニアックな黒人向けのゲイクラブであったウェアハウスを人気クラブへと成長させた。元々「Warehouse」は、R&Bやディスコミュージックの店として知られていたが、フランキー・ナックルズは、オリジナル性の高い音楽を生み出すために試行錯誤する課程でディスコミュージックとヨーロピアン・エレクトロニックミュージックをミックスする手法を発見した。1982年に「Warehouse」が入場料を2倍に値上げしたことにより、フランキー・ナックルズは「Warehouse」を離れることを決意。ファンも後を追い、フランキー・ナックルズの移籍した 「The Power Plant 」へ通うようになった。これを受けてウェアハウスのオーナーは店名を 「Music Box」 に替え、新たなDJとして ロン・ハーディー を迎え入れた
近所のレコード屋では、フランキー・ナックルズが流していた「ウェアハウスっぽい音」を求めるDJやお客さんの要望が殺到したため、店主が「ウェアハウス」と掲げたコーナーを作ったのが「ハウスミュージック」の語源と言われている。やがてフランキー・ナックルズはトラック制作にも目覚め、数多くのハウス・ヒット作を生み出していく。ニューヨークのディスコの影響を受けつつも、ポップさが減り、4つ打ちの激しく機械的なビートが強調され、ベース音はよりディープになり、流麗なオーケストラの代わりにシンセサイザーが多用され、ヴォーカルは存在しないかあってもディスコのように歌姫が叙情的に歌い上げるようなものではなくより呪術的でかつ無機質なものになる、などの特徴がある。こうした音楽の制作に大きく寄与したのが、当時格安で出回っていたシーケンサーやシンセベースローランド・TB-303やドラムマシンローランド・TR-909である。これにより、オーケストラやプロのセッション・ミュージシャンを必要としたディスコなどと異なり、アイディアさえあれば貧乏な素人でもハウスの曲を制作する事ができた。また、このベースシンセサイザーのローランド・TB-303のセッティングを極端にいじることで演奏できるウニョニョとしたドラッグ体験を思わせる奇妙な機械音は、多くのシカゴ・ハウスの楽曲に使われ、これは後にアシッド・ハウスと呼ばれる音楽へと変化していく。こうした音楽を多数リリースしたシカゴ・ハウスを代表するレーベルにTrax Recordsなどがある。フランキー・ナックルズの代表曲を以下に挙げておく。

一方のシカゴ・シーンの立役者ロン・ハーディーは、1957年5月9日に生まれ、シカゴのサウスサイドのチャトハムで育った。ロン・ハーディーの甥にあたるビル・ハーディーは、自分の母親はロン・ハーディーが子供の頃から音楽が好きだったことを見抜いていたと振り返り、「ロンは俺の親父のところへやってきて、俺の母親と一緒に座ってレコードプレイヤーでレコードをかけていたよ」と語る。その後ロン・ハーディーは地元のヒルシュ高校に通ったものの、卒業することはなく、16、17歳頃に両親の家を飛び出すとクラブ通いを始めた。19歳の時にオールドタウンにあったゲイディスコ、「Den One」のメインDJを務めるようになったが、そのディスコが売却されると、一時的に「Jeffrey Pub」で働き、その後友人とDJ Bill Alexanderを追いかけて、LAのCatch Oneへ移ったが、1981年に兄が亡くなるとシカゴへ戻り、「The Ritz」の水曜日を担当するようになった。ロン・ハーディーがシカゴに戻ってきた頃は、「Warehouse」の人気が絶頂だったが、同時に大きな変化も起きようとしていた。1982年11月、フランキー・ナックルズが「Warehouse」を抜けて、自分のクラブ「The Power Plant」を立ち上げると、「Warehouse」のオーナーだったロバート・ウィリアムズも「Warehouse」の入っていたビルとの契約を失った。ロバート・ウィリアムズはその後、1632 South Indiana Ave.に元工業ビルを見つけ、1984年2月に「The Music Box」をオープンさせた。ロン・ハーディーは、ウォルター・ギボンズがミックスしたFirst Choiceの「No Man Put Asunder」や、Kikrokosの「Life Is a Jungle」、そしてIssac Hayesの「I Can’t Turn Around」のアルバムバージョンなどを用いたループ感の強い独自のテープエディットをプレイしていた。可能な限りピッチを速くし、またインストのブレイク部分だけをプレイする時も多く、そこに電車や宇宙船のサウンドエフェクトや耳をつんざくようなリバーブを加え、フロアのダンサーたちをビートだけで打ちのめしていた。オープンリールを使ってTaana Gardnerの「When You Touch Me」などを逆回転でプレイする時もあった。
ロン・ハーディーはシカゴローカルのプロデューサーのトラックをプレイしながら、例えばマーシャル・ジェファーソンのヘヴィーなベースのインストにAl Greenの「Love and Happiness」のイントロを加えたトラックなど、自分自身のトラックも生み出すようになっていった。また、Jesse Saundersの「Funk-U-UP」の初期バージョンのボーナスビートを使い、そこにRudy Ray Mooreのアダルト向けのコメディLP『The Sensuous Black Woman Meets The Sensuous Black Man』のボイスを乗せたトラックもあった。彼の音楽が生み出す幻覚症状は、クラブに来ていたダンサーたちの多くが摂取していた薬物と相乗効果を生み出していた。誰に話を聞くかにもよるが、ロン・ハーディーのDJプレイは彼が摂取していたヘロインの効果が大きかったという意見がある。一方、反対意見も根強いが、Stacey Collinsはアシッドパンチは存在しなかったと主張している(ロバート・ウィリアムズも他人がハイになったり、アクシデントでオーバードーズになるリスクを好んでいなかった)。しかし、エンジェルダスト漬けのジョイントやMDA(エクスタシーの先駆け)は広く流通したようで、Collinsも大きなビニール袋にジョイントを詰め込んだドラッグディーラーが最低でもひとりはいたことは記憶している。そして脱水症状に近い状態のダンサーたちはラウンジで提供されていたフルーツと水を求めた。こうして音楽制作のプロフェッショナルな世界に足を踏み入れていたロン・ハーディーだったが、上を目指そうとしているローカルのミュージシャンたちによって手渡されたテープをプレイしながら、生々しい新しいサウンドの探求も続けていった。そしてこの実験欲がアシッドハウスの誕生へ続いていった。「ロン・ハーディーがいなかったら、Phutureは生まれていなかったし、アシッドハウスは存在しなかった」Spanky(Earl Smith Jr.)は断言する。Phutureの初期メンバーのHerbert Jacksonが「Music Box」の存在を知り、PlaygroundでダンスしていたSpankyを誘ったのがきっかけだった。「Music Box」の洗礼を受けたのがDJピエールだった。DJピエールはシカゴ郊外のユニバーシティ・パークで音楽一家の元に育ち、DJやスクラッチに出会う前は、スクールバンドでクラリネットとドラムを担当していた。DJとスクラッチに出会ってからはブレイクダンス用の音楽をプレイしていたDJピエールだが、Spankyに連れられて「Music Box」へ行ってから彼のスタイルは180度変化した。
シカゴローカルの多くは「Music Box」を「Muzic Box」と綴るが、その理由を知っている人はほとんどいない。これは初年度に同時期に改装されたゲイ所有の劇場Music Box TheaterがMusic Boxと同じ雑誌に載っていたために、混同するというクレームを受けてロバート・ウィリアムズが変更したのが理由だ。しかし、残念ながらその「パーティ」は長くは続かなかった。シカゴ市は1987年1月、ジュースバーの営業時間帯を厳密に指定する条例を制定した。Stacey Collinsは「Music Box」へ出勤するとドアにクラブ閉店の旨を伝える大きな張り紙がしてあったのを覚えていると振り返る。しかし、ロン・ハーディーとロバート・ウィリアムズはその後も、1987年は「Club C.O.D.」で、1988年はBroadway(IgLoo)Arts Centerと650 West Lake St.にあった泥と油まみれの駐車場で、そして1989年から1990年にかけてはPower Houseの跡地(2210 SOuth Nichigan Ave.)などをヴェニューにしながら、パーティを続行させようと努力し続けた。複数のソースから判断するに、ロン・ハーディーは体調を崩した際にHIV陽性が発覚したようだ。そして1992年3月2日月曜日、スプリングフィールドで母親の看病を受けていたロン・ハーディーは34歳でこの世を去り、その直後にお別れパーティがシカゴで開催された。ロン・ハーディーは生前にその才能にふさわしい称賛を受けることはなかったが、彼から多大なる影響を受けた数多のDJとプロデューサーたちを通じて彼の遺産は今も輝きを放っている。ロン・ハーディーのトラック制作は多くはないが、いくつかは語り継がれている。


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