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ブラックミュージックの歌姫とドゥルーズ=ガタリ

今1時7分である。実は起きたのは昨日の23時半だった。ここのところ読書のBGMに女性R&BシンガーのCD(数えてみたら113枚持っていた)を立て続けに聴いているのだが、中でも数が多いのはメアリー・J. ブライジのCDである。9枚も持っていた。なぜこんなに持っているかというと、ブックオフオンラインで買ったらめちゃくちゃ安かったからである。たいてい1枚100円で売っている。まあ、R&Bも嫌いではないし。基本的にブラックミュージックが好きなのだ。メアリー・J. ブライジの次に多いのはデスティニーズ・チャイルド&ビヨンセだろうか。7枚あった。
メアリー・J. ブライジは、「クイーン・オブ・ヒップホップ・ソウル」と称され、「ニュー・ジャック・ディーヴァ」、「ニュー・チャカ(チャカ・カーン)」、「ニュー・アレサ(アレサ・フランクリン)」とも形容される。ちなみにチャカ・カーンは大好きだ。16歳の時にニューヨーク州ホワイト・プレインズのショッピング・モールに設置されていた録音ブースでアニタ・ベイカーの1986年のヒット・ナンバー「コート・アップ・イン・ザ・ラプチャー」(Caught Up in the Rapture)を歌い、そのデモ・テープを継父がレコーディング・アーティストのジェフ・レッドに預け、それが当時のアップタウン・レコードの社長だったアンドレ・ハレルに渡ったのがデビューのきっかけだったらしい。デビュー後は、独特の憂いや哀しみを帯びた魅力的なアルトボイスから醸し出されるある種危険な香りのする歌唱スタイルが注目された、全米はじめ世界のブラック・ミュージック・ファンがその声に惚れ込み、とりわけ男性ファンを魅了した。デビュー・アルバム「ホワッツ・ザ・411?」では、ヒップホップのビートでR&Bが歌われるスタイル(のちに「ヒップホップ・ソウル」と呼ばれことになったスタイル)を全編に亘って打ち出したアルバムで、メアリーはヒップホップ世代の新たな歌手として一躍大きな注目を浴び、ストリート感に溢れた「生の」歌声は、アルバムのサウンドと見事に合致している。持っているCDの中で一番好きなのは「ザ・ツアー」というライブアルバムである。メアリー・J.ブライジの、初のライブアルバムで、1997年の全米ツアーからロサンゼルスのユニヴァーサル・アンフィシアターでの模様が収録されており、ソウルの効いたヒップホップ・サウンドがたっぷりと堪能できる。

ライブアルバムということで言えば、ダイアナ・ロスのライブアルバムも最高だった。1989年にワールド・ツアーをスタートさせた、ロンドン・ウェンブリー・アリーナでの熱狂のコンサートの模様を捉えたライブアルバムで、モータウン時代のシュープリームス、ソロ楽曲からレーベル移籍後の楽曲までヒット曲ばかりを収めた、まさにグレイテスト・ヒッツ・ライヴである。2015年来日記念盤。やっぱりアーティストのCDといえばライブ盤に限る。迫力が違うし、スタジオ録音のように小細工ができない分、アーティストの実力が試される。

黒人R&BシンガーのCDを聴き終わったので、なぜか持っている倉木麻衣やMISIA、宇多田ヒカル、UAのCDを聴き始めた。何故買ってしまったのかは、まあ、なんとなくR&Bテイストがあったからなのかもしれない。決して日本人アーティストが嫌いだというわけではない。MONDO GROSSOや大沢伸一は好きである。ただ残念なのは世界で通用できるディーヴァがいないことだろうか?Monday満ちるのCDは12枚買う予定でいるが、彼女を日本人というのはちょっと無理がある。
ブックオフオンラインのマイブックオフを整理して、伊藤俊治先生(あえて敬称を付ける)やフランス現代思想の本を追加した。
伊藤俊治先生は今は東京芸術大学美術学部先端芸術表現科教授をされているが、多摩美術大学教授時代、「20世紀美術論」の授業が刺激的で面白かったし、当時の私の感性にぴったりだった。「生体廃墟論」を読んだときには衝撃を受けたものである。「機械美術論 -もうひとつの20世紀美術史」も当時の私の感性にピッタリ。建築科の設計製図の課題製作ではいつもアート=サイエンス=テクノロジーを意識して設計していたのだが、教授たちの評価は散々だった。私の理想の建築は、今でもパリのポンピドーセンターである。
フランス現代思想の本では、年明けにもジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著である「哲学とは何か」と「千のプラトー」を買う予定。二人の共著としては浪人時代に「アンチ・オイディプス」を買って読んだのだが、はっきり言ってさっぱりわからなかった。ただ、文体がかっこよかったのを覚えている。アンチ・オイディプスはその名のとおり、人類学から派生して研究されていた構造主義を踏まえつつ、精神科医のジークムント・フロイトにより主張されていた学説に対して批判を加える哲学的な研究である。ドゥルーズは西欧で前提とされてきた形而上学を批判し、ガタリは従来の精神医学の革新を主張していた。この著作では、人間の精神、経済活動、社会、歴史などさまざまな主題を扱っている。特に、ここで議論の中心となっているのは、人間の無意識の欲望の概念である。ドゥルーズとガタリは、フロイトの説に対して、無意識の欲望の概念を再検討し、欲望とはそれ自体で成立している実体ではなく、ある関係の中で存在するものであると考えた。そして、欲望をさまざまな事物を生産する機械として定義している。この見解によれば、エディプス・コンプレックスは、フロイトの弟子ラカンが言うように人間が原初的に備えているものではなく、社会的な発明によるものである。欲望をさまざまな事物を生産する機械として定義していて、「欲望する諸機械」や「器官なき身体」という用語は刺激的である。「千のプラトー」の中で展開されている概念としては「リゾーム」が有名である。ドゥルーズとガタリは、伝統的に西洋の形而上学はある絶対的な一つのものから展開していくツリーのモデルをとってきたと解釈し、それに対抗して、中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するノマド的なリゾームのモデルを提唱。狙いは、体系を作り上げそれに組みこまれないものを排除してきた西洋哲学に反抗し、リゾームをモデルに発想の転換をさせるところにある。私はこの「中心も始まりも終わりもなく」というところに仏教哲学(特に中観派の教理)との親和性を感じてしまう。
お昼に大正区に住んでいるYちゃんからお誘いの電話が入って、おでんと酒を用意しているので来ないかと言われたのだが止めておいた。ただ酒が飲めるが、面倒くさかったからである。それほどまでに今のところ飲酒欲求はない。以前なら飛んで行ったかもしれないが・・・。
その代わり、いつもの腐れ縁のYが呼ばれていて、そのあとに一緒にIKEAに行こうといっている。パソコンのテーブルの椅子をプレゼントしてくれるらしい。ついでに夕食も食べることになっている。それもYの奢りだ。
16時前に大正区のYちゃんの家に迎えに行くと、IKEAに行く前に駅前の立ち飲み屋でちょっと飲もうということになった。そこで生ビールジョッキ3杯飲んでしまった。別に罪悪感はない。ただ飲んだという事実があるだけである。断酒を誓ったアルコール依存症者ならスリップしたと言って慌てて断酒会やAAに蹴込むのだろうが、私はそんなことはしない。断酒会の中には断酒何年と自慢している人がいるが、バカみたいだ。スリップごときで大騒ぎしていたらストレスばかり溜めるだけで、別の病気になってしまう。
結局、飲んで気が大きくなったYは飲みに行くことになってIKEAには行けなかった。仕方なく地下鉄で帰ってきて、速攻で寝てしまった。

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