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15.フランス語

大学に入って、外国語を何語を選択するかでは、私は迷わずフランス語を選択した。と言うのも、私は本気でフランスのエコール・デ・ボザールへの留学を考えていたからである。エコール・デ・ボザールは17世紀パリに設立され、350年間以上にわたる歴史があり、建築、絵画、彫刻の分野に芸術家を輩出してきたフランスの高等美術学校で、現在は建築がここから切り離されているが、私の学生時代はまだ分離されてはいなかった。
ボザール自体は絵画、彫刻、建築の各美術分野を併せ持った総合美術学校であるが、そのうち建築セクションではほかとはまったく独自に別れて、特権的ともいえる独自の教育方針を採り、その教育システムも19世紀の出発期から1968年の解体にいたるまで、途中1863年にナポレオン3世の介入による大改革以外は、ほとんど変わることなく続けられてくるという、あくまでアカデミーがその教育をつかさどるという創立以来の方針が堅持されてきた。ボザールの基本はアトリエ制であるが、今日の大学のような講座やスタジオ、研究室などではなく、建築であれば建築家を招いている学生私塾のようなもので、建築家になろうとするものはまずは外国人であってもアトリエに入所し、普通はその所属するアトリエの建築家の推薦を得てボザールの入学志願者の資格を得ることになる。アトリエのパトロン建築家は自身の建築設計事務所は別に主宰している。初期のアトリエパトロンはすべてローマ賞受賞者で占められ、建築家の特権的立場を維持しながら社会をリードしていく建築形態と建築を絶えず生み出していった。
1968年の5月革命をきっかけに、ソルボンヌ大学に続いて構造改革を要求して立ちあがったボザールも大学の改革が行われ、解体そして分校制といった結果を招くことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、ディジョン、ブールジュ、ナンシー、リヨンと、ロリアン、レンヌ、カンペール、ブレストというように各地に分割され、旧態依然としていたアトリエ制も廃止された。分割された中で最も有名なのがパリのエコール・デ・ボザール=パリ国立高等美術学校である。私が目指したのもここである。現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校を総称としてボザールと呼んでいる。
フランスに限らず、欧米のほとんどの国においてはアーキテクト(建築家)とビルディングエンジニア(建築技術者)とは、教育の体系、資格制度、職能団体構成等、すべての点で明確に区別され、日本のような、広範囲な分野の人を含む建築士とは単純に比較できないことを先ず承知しておく必要があり、建築家は決して技術者とはいわない。1968年11月制定された「高等教育基本法」はその目標として知識の伝達、研究の促進、人間の教育の3つを掲げ、特に最後の人間の教育については、人間がより良く自らの運命を制御できるようにすることを狙っている。そして芸術と文学を科学と技術とに結びつけるような大学を構成するよう再編された。
私の理想とするバウハウスに代表されるモダニズムは、いわば、エコール・デ・ボザールのアカデミズムに反旗を翻す形で広がっていった建築運動・美術運動であるが、私がなぜ、矛盾するようにエコール・デ・ボザールに憧れたかは、浪人時代に見たエコール・デ・ボザールの作品集のドローイングの美しさに見とれてしまったからである。また、私の好きなフランスの建築家がみなエコール・デ・ボザール出身だったこともある。
そういうわけで、大学に入る前からフランス語は独学で日仏辞典を買ったり、英仏辞典を買ったりして、ちょっとかじっていたこともあり、留学を考えて、大学での授業以外にも外国語会話学校へフランス語を習いに行くことになる。
最初に訪れたのは、アルバイト先が近かった八王子のベルリッツだったと思う。留学に必要なフランス語力をつけるのに、どれくらいの時間と授業料を聞いたのだが、確か授業料は100万近く必要だと言われた思いがある。そういうことで、八王子のベルリッツは諦めた。その後、いろいろ調べてみた結果、駅前留学で有名なNOVAが、1レッスン1000円以下だったこともあり、通いやすさから渋谷の駅前のNOVAのフランス語科に通学することになった。学外でもフランス語を学んでいたために、学校以外でお互いにフランス語を勉強している人と出会う機会も多く、時々、女性と渋谷でお食事することもあった。また、大学1年の時、実家に帰省したついでに大阪のフランス語学校のサマースクールに参加した時も、私ともうひとり、鹿児島大学医学部の学生以外、全員女性で、サマースクール終了後のお食事会の時も、私一人、女性に囲まれることになった。だから、女っ気のない大学時代とはいうものの、出会うきっかけは多かったかもしれない。それに、後に私がクラブに通うようになった時も、大学のフランス語クラスで一緒だった女子学生数人と何度か会っており、向こうは私と話したそうにしていたが、何故か無視してしまって、今から考えると惜しいことをしたものだと思う。
大学でのフランス語の授業は、まず、フランス語が初めてという学生のためにテキストや授業にもなっていたので、内容は、英語で言うなら中学生レベルのフランス語だったので、学外でもフランス語を勉強していた私には簡単すぎて、先生に当てられてテキストの文章を音読したとき、流暢に読んだので褒められたし、結果としてフランス語の成績は、1年2年ともにオール「A」だった。
ただ、大学3年生の時に、フランス語原書講読の授業をとって、少人数のクラスでジャン・コクトーの「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」を読んだのであるが、そのテストを二日酔いでサボってしまい、単位は落としてしまった。
フランスに行きたかったのは、もちろんエコール・デ・ボザールの存在が大きかったが、それ以外にも、百年戦争時代のフランスに興味を持っていたこともある。ヴァロワ家時代のブルゴーニュ公の話が好きだったり、狂王シャルル6世の摂政権を巡ってオルレアン公ルイと対立した結果、ルイを暗殺してパリを支配したジャン無怖公(ジャン・サン・プール)とか、イギリスとフランスの戦いにハプスブルグ家が絡んできて複雑な西ヨーロッパ情勢に興味を持った。百年戦争といえばジャンヌ・ダルクであるが、1429年のオルレアン解放をNOVAの女性フランス語講師に説明したらびっくりしていた。ちなみに、1429年のオルレアン包囲戦でジャンヌ・ダルクに協力し、ラ・イル、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ、ジャン・ド・デュノワ、アランソン公ジャン2世、アンドレ・ド・ラヴァル、アルテュール・ド・リッシュモンらと共にパテーの戦いに参加して戦争の終結に貢献し「救国の英雄」とも呼ばれたジル・ド・レという人物がいるのだが、この人、フランソワ・プレラーティら詐欺師まがいの「自称」錬金術師が錬金術成功のために黒魔術を行うよう唆したことも加わり、手下を使って、何百人ともいわれる幼い少年たちを拉致、虐殺し、錬金術成功という「実利」のためだけではなく、少年への凌辱と虐殺に性的興奮を得ており、それにより150人から1,500人もの犠牲者が出たと伝えられていて、高校時代から興味を持っていた。当時からジョルジュ・バタイユの「ジル・ド・レ論―悪の論理─」や、澁澤龍彦の「異端の肖像(幼児殺戮者)」、「黒魔術の手帖」、ジョリス=カルル・ユイスマンスの「彼方」などを読みふけったものである。また、ピエール・クロソウスキー、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ジャン・ボードリヤール、フェリックス・ガタリといったフランス現代思想家達も好きで、フランス語原書講読の講義で何を読むか議論になったとき、ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造 (La société de consommation)」を推したのだが、マニアック過ぎて却下された。ついでながら、私の母校の高校の創設者ジャン=バティスト・ド・ラ・サールもフランス人である。

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