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3.十七か条協定

1951年、ダライ・ラマ法王はンガプー・ンガワン・ジグメ他数名を、中華人民共和国側に「チャムドを占領した人民解放軍の撤退を交渉させる権限」を与えて北京に派遣した。ただし、あくまでチベット側の言うべきことを相手に伝えて交渉を始めるために派遣したのであり、ンガプーらが絶対に勝手に中華人民共和国側と協定類を結んだりしないようにと、ダライ・ラマ法王は国璽を手元に念入りに保管しておいて派遣したのである。
この時、ダライ・ラマ法王は弱冠16歳だったが、租税徴収の公正化を実現して国民を喜ばせるなど、意欲的な統治者ぶりを発揮し始めていた。しかし平和な宗教国家として、わずか8500人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に屈するしかなかった。
ところが、中華人民共和国側は北京にやってきたンガプーらを脅迫・恫喝して、協定というよりも、最後通牒の形で、あらかじめ中華人民共和国側が作成しておいた「十七か条協定」なるものを一方的に提示し、全権委任されておらず、条約を結ぶ権限を与えられてもいないンガプーに強引に調印させようとした。ンガプーらが国璽どころか各自の判すら所持していないことが判明すると、中華人民共和国側では、ウチェン体(活字体のような書体で、印刷物はウチェン体で書かれていることが普通。手書きの時は、ウメー体という筆記体を使う)で掘られた粗末な国璽を急遽作成し、代表団に銃を突きつけ、チベット政府との連絡を一切とらせないまま1951年5月23日、強引に署名・押印させた。
この十七か条協定では、その第一条は、以下の文面であった。
「チベット人民は団結して、チベットから帝国主義侵略勢力を追放すること。チベット人民は母国中華人民共和国の大家族に復帰すること。」
これには、二重の虚偽が含まれている。第一に、この時、チベットにはいかなる外国勢力もなかったのであって、外国勢力といえば、チベットが1912年に最後に追い出した中国人兵力だけであった。
第二に、チベットが中国の一部であるという主張も、強引に史実をねじ曲げたものだった。チベットは、史実の伝わる1300年以上の歴史を通じて、かつて漢民族によって支配されたことはない。元と清の皇帝はチベット仏教に帰依し、チベットの宗主国の立場にあったが、前者はモンゴル民族であり、後者は満洲民族である。漢民族はそれらの帝国の被支配者の一部であったにすぎない。
協約の第2条は「チベットの地方政府は、人民解放軍がチベットに入って国防を強化するのを積極的に助けること」、第8条はチベット軍を中共軍に併合する事を規定し、第14条は、外交上のあらゆる権限をチベットから剥奪していた。
協定が調印されてからまもなく、聖都ラサにも、人民解放軍一万人規模の駐屯が始まった。かれらは何一つ携帯しては来なかった。ことごとくチベット人の貧弱な糧食源から供給をうけるつもりであった。穀物の価格が突如として約10倍にも高騰した。バターが9倍、一般穀物が2倍ないし3倍になった。ラサの民衆は飢餓の縁まで零落した。
1951年5月26日には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてンガプーにより協定署名の件が放送された。
ダライ・ラマ法王はチベット南部のヤトンに避難していたが、持っていたラジオで中華人民共和国側が流しているンガプーによるチベット語放送を聞いて、驚愕した。そもそもンガプーらにはチベット独立の主張を取り下げ、中国への併合を取り決める協定を結ぶような権限を与えていなかったし、協定を結ぶのに必要な国璽は持たせていなかったから、そんなことはそもそも不可能なはずだったからである。
ダライ・ラマ法王は協定締結のニュースを聞き、ンガプーの越権行為に衝撃を受けるが、パンチェン・ラマは同1951年5月30日にダライ・ラマ法王に対して「中国政府の指導の下、チベット政府に協力する」と表明した。なお、ンガプーはその後のチベットにおける中国共産党の忠実な代弁者となった。
1951年7月、協定に調印したチベット外交団(ンガプーを除く)と中国人民解放軍ラサ駐留司令官の張経武将軍がヤトンを訪れ、ダライ・ラマ法王に条約の有効性を認めるよう求めた。アメリカはダライ・ラマ法王に対し、亡命して協定の無効を訴えるよう呼びかけていたが、多くの僧侶がダライ・ラマ法王のラサ帰還を望んだため、結局ラサに戻って協定に基づいた改革をはじめることとなる。
1951年9月6日、ダライ・ラマ法王は9ヶ月ぶりにラサに戻り、その3日後に3000人の人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり、9月末には議会で承認された。1951年10月24日、ダライ・ラマ法王は、「協定を承認し人民解放軍の進駐を支持する」旨の手紙を毛沢東に送った。この手紙はその後中華人民共和国のチベット支配の正当性を主張するのに大いに利用された。
ユン・チアン(中華人民共和国出身の作家。現在イギリスに在住し、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で教鞭を執っている。『ワイルド・スワン』の著者として有名)によれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があった。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。中華人民共和国側はチベットに実質上の自治を与えるかのような態度を見せ、「ダライ・ラマ法王をチベットの『元首』と認め」、チベット代表達を安心させる発言を繰り返した。しかし1956年初旬に中華人民共和国内からチベットにつながる幹線道路が完成すると、直ちに中国人民解放軍による攻撃が再開され、チベットの反乱を呼ぶこととなる。

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