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アール・ブリュ

私が初めてアール・ブリュのことを知ったのは、ペヨトル工房が出していた「銀星倶楽部06 特集 ノイズ」の中のSPKのグレアム・レベルのインタヴューでだった。そこでアール・ブリュのこと、SPKの曲のタイトルにもなってるアール・ブリュ作家ロバート・ギーのこと、そのロバート・ギーと「アンチ・オイディプス」の関係について語っていた。
アール・ブリュはフランスの精神病院の患者、あるいは、完全な蒙昧の中で強迫観念によってアート作品を作りながら生きているのを発見された人々によって描かれた絵画、彫刻、素描、文章のコレクションに対して与えられた名称であり、スイスのローザンヌの小さな美術館に収容され、定期的にヨーロッパ中の小さな集会所でひっそりと展覧されている。作品はひとえにオリジナリティーという観点からのみ選考され、その結果、集まったものは、解読不可能なカリグラフィーや原始人の造形物、解釈できない音楽、強迫観念にとりつかれたデザインのオンパレードで、「アートの歴史」のどこにも見出されないスタイルである。
主要なアーティストを紹介すると、25人の少女を震え上がらせたアドルフ・ヴェルフリは、兵役の後、農場で働いたり、墓堀り、セメント工など職を転々とし、孤独な生活の果て、26歳の時に幼女への性的暴行未遂で逮捕され、刑務所に送られ、2年の刑に服す。その後、31歳の時にも女児への性的虐待未遂で再び逮捕され、精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、1895年以降、亡くなるまでヴァルダウ精神病院で過ごした。独房で新聞用紙に絵を描くようになり、やがて66年の生涯を終えるまでに、『揺りかごから墓場まで』、『地理と代数の書』、『葬送行進曲』といった45冊、2万5000ページにわたる作品を昼も夜も寝ないで狂ったように描いた。音楽作品は従来の方法では解釈できず、ヴィジュアルな効果として人を魅了し、奇妙なコラージュと一体化している。
ハインリヒ・アントン・ミュラーは、1917年にデザインを始め、自分の部屋の壁をシンボリックなイメージで覆い尽くした。また、何の役にも立たない機械を作ったのだが、この仕事に12年間没頭すると、1925年には前とは完全に異なる一連のデザインを始めた。
ロバート・ギーは、1922年までアルコール中毒で病院に収監されていたが、精神分裂病の一種の妄想にとりつかれ、1916年を中心に作品を作った。心理過程のコントロールを型どった人間と機械の融合のイメージは、アートのメインストリームにおけるその種のイメージとは遠く隔たっている。
ネットで調べると、アール・ブリュットと出てくる。たぶんこれは、フランス語のbrutの女性形であるbruteを発音したものと思われるが、フランス語の場合、最後のtは通常発音しない。ただ、辞書の発音記法を見ると、[bryt]となっているので、例外的に発音するのかもしれないが・・・。Art brutの意味は、加工されていない生(き)の芸術であるが、brutにはもう一つ、野蛮なという意味もある。私は確か大学かNOVAで、英語のnoise(騒音)と同じ意味もあると学んだ覚えもある。ともかく、既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品で、英語ではアウトサイダー・アートと称されている。
歴史的には、フランスの画家ジャン・デュビュッフェが1945年にアール・ブリュと呼んだ、強迫的幻視者や精神障害者の作品が1967年にパリ装飾美術館にて初めて展示され公的に認知された。1972年にイギリスのロジャー・カーディナルがアウトサイダー・アートとして、社会の外側に取り残された者の作品で、美術教育を受けていない独学自習であるとして、概念を広げ精神障碍者以外に主流の外側で制作する人々を含めた。プリミティブ・アートや、民族芸術、心霊術者の作品も含まれるようになった。
19世紀を通じて発生したアカデミーの制度は正しい絵画技法を要求しその範疇にない芸術表現を二流の地位へと追いやったが、実際にはその時代もゴッホやゴーギャンのような革新者に満ちあふれており、19世紀末にはアカデミーに入ることは既に目標ではなくなっていた。1880年代後半にアドルフ・ヴェルフリのような収容された統合失調症患者が絵画を通じて自己表現を行ったときにアウトサイダーの歴史は始まり、伝統的な芸術の営みの外側においても芸術の才能は開花するものだと確信し、デュビュッフェはアール・ブリュと呼んだのである。
19世紀から1920年代までは、精神科医に患者の作品が認識されだした時期であり、その後1945年からデュビュッフェはそうした作品が芸術だと認知されるよう取り組み、1985年に死亡した。デュビュッフェの死後、一般にも認知されるようになり、精神医学とは関係なくなる。19世紀末からの古典期は患者の作品が集められたが、1950年代に治療法が変わり抗精神病薬が登場し入院期間が短期化されると、精神病院からの作品の供給は途絶えてこそいないが、かなり変化した。日本では社会的入院の問題が残っており事情が異なる。
デュビュッフェが1923年に入手していたのは、ハイデルベルク大学付属精神病院の医師プリンツホルンの著書『精神病者の芸術性』であり、1945年に、この著書にあるような患者や作品を探してフランスやスイスの精神病院を訪ねた。そうして、アドルフ・ヴェルフリの遺作や、アロイーズ・コルバス、ルイ・ステールに出会った。デュビュッフェは、精神の深淵の衝動が生のままむき出しに表出され、美しい造形に対する反文化的な造形だと考えていた。
アウトサイダー・アートの言葉を最初に使ったのは、イギリスの美術評論家のロジャー・カーディナルであり、1972年の著書『アウトサイダー・アート』の中である。これによれば、強迫的な幻視者や精神障害者などの社会の外側に取り残された者の作品で、美術教育を受けていない独学自習であるということである。つまり、カーディナルは概念を広げ精神障害以外に主流の外側で制作する人々を含めたのである。カーディナルの基準とは、訓練されずに、歴史的分類に規定されるような作品を作りたいという衝動である。そうして、プリミティブ・アートや、民族芸術、ホームレスの作品などが含められるようになった。1989年にイギリスでアウトサイダー・アートの専門誌である Raw Vision が創刊されたが、同誌はアール・ブリュ、コンテンポラリー・フォーク・アート(大衆芸術)、幻視芸術のような同類の分野も取り扱っている。アウトサイダー・アートという言葉はアール・ブリュよりも広く、大衆芸術、幻視芸術のような他の用語を取り込んでいっており、その範囲は極めて拡大していっておりあらゆる新しいジャンルを含めていっている。
1990年にはオーストリアの精神病院内にあるグギング芸術家が国家芸術賞を受賞したし、モーリス・タックマンが企画し1992年よりアメリカ、日本など4か国を巡回した「パラレル・ヴィジョン」展を通じて、アウトサイダー・アートの認識は広まってきた。2010年代には、日本のアウトサイダー・アートとして障碍者の芸術が海外で展示され好評を得て、日本でもその認識は高まっている。
アール・ブリュ・コレクション(Collection de l’Art Brut)の「芸術はわれわれが用意した寝床に身を横たえに来たりはしない。芸術は、その名を口にしたとたん逃げ去ってしまうもので、匿名であることを好む。芸術の最良の瞬間は、その名を忘れたときである」というデュビュッフェの言葉は、アール・ブリュの概念を総括する根幹としてとらえることができる。アール・ブリュの作者たちは、あらゆる文化的な操作や社会的な適応主義から自由なのだ。彼らは精神病院の患者、孤独に生きる者、社会不適応者、受刑者、あらゆる種類のアウトサイダーたちなのである。
これらの人々は、沈黙と秘密そして孤独の中、独学で創造活動を行っている。いっさいの伝統に無知であることが、彼らをして創造性にあふれ、破壊的な作品制作を可能にしているのだ。デュビュッフェいわく、「われわれが目の当たりにするのは、作者の衝動のみにつきうごかされ、まったく純粋で生の作者によって、あらゆる局面の全体において新たな価値を見いだされた芸術活動なのだ」。デュビュッフェはアール・ブリュという概念の提唱者であるのみならず、アール・ブリュ・コレクションの創始者でもある。1971年、デュビュッフェは、当時すでに5,000点を超えていたコレクションをローザンヌ市に寄贈したのである。これをうけ、世界にも例をみないユニークな収蔵館が1976年、18世紀の貴族の邸宅「ボーリュウ館」を改修して誕生した。
ちなみに、冒頭の「銀星倶楽部06 特集 ノイズ」でアール・ブリュを知るきっかけになったSPKは、1978年にオーストラリア・シドニーで結成された音楽グループで、初期のノイズ・インダストリアル音楽に多大な影響を与えたグループである。シドニーの精神病院に勤務していた看護人のグレアム・レベルと、彼の患者であったニール・ヒルが1978年に結成した。1980年代にはさまざまなインダストリアル・ノイズ系のアーティストが世界中で活躍したが、このSPKの登場はまさに「本物」である狂気を見せつけたという点で、今日でも「伝説」として語られるグループである。歌詞は「死」「狂気」「戦争」「絶望」などをテーマとしたネガティヴな作品ばかりであり、サウンドの方もテープ操作や金属音・破壊音などを用いておおいに歪んだ編集をされており、同時代の音楽にはまったく見られなかったスタイルであった。グループ名はドイツのハイデルベルク大学に存在した"Sozialistisches Patientenkollektiv"(「社会主義患者集団」)に由来するが、"Information Overload Unit"では"System Planning Korporation"、グループ解散後に発売された初期シングル集である"Auto Da Fe"では"SePpuKu"と表記されていることから、言葉遊びという一面も見られる。一般的には"SPK"という略称が用いられた。ニール・ヒルの自殺について、精神病患者というプロフィールや音楽性から、数多くのネガティブでダークな噂や憶測をされているが事実とは異なる。実際は「恋人に先立たれて後追い自殺した。」という、まるで純愛ドラマのような理由であることをグレアムは語っている。(ペヨトル工房の『銀星倶楽部14 オルタネイティブ・ミュージック』) 恋人の死亡原因はダイエット薬の過剰摂取だった。シンコーミュージックから1984年に出版された水上はるこ著『青春するロンドン』に当時の生のSPKの様子が詳しく掲載されている。水上はるこは当時Some Bizzareなどのインディーズ・レーベルに出入りしており、SPKをはじめ、当時ロンドンで活動していたインダストリアル系やニューウェーブ系アーティストの周辺にいた者でしか知り得ないような情報をこの本の中で多数紹介している。

「銀星倶楽部06 特集 ノイズ」では、2000年より多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コース教授になった三上晴子がMark Stewart + Maffiaの「Learning To Cope With Cowardice」を紹介していたり、同じく多摩美術大学教授で未来派のルイージ・ルッソロが発明したが第二次世界大戦により失われた騒音楽器イントナルモーリの復元を行った秋山邦晴が「ルッソロの『騒音の芸術』の思想と今日のノイズの系譜断章」という文章を寄せていたりするのだが、またの機会に紹介したい。


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