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帰国

2001年11月27日。いよいよ帰国の日である。インドの安宿は大概24時間で換算するので、2日前に朝の8時にチェックインした私は、今日は朝の8時までにチェックアウトしなければならない。ニューデリーで泊まったホテルは、場所はメインバザールに入って200m、大きく同系列のスター・パレスの大きな看板が見えてきた細い道を左に曲がってすぐのスター・パラダイスである。ここの目玉は、オーナーのサジャーン氏が日本語が通じることである。これは大きい。飛行機は夕方離陸する予定なのだが、チェックアウトしてからの時間のつぶし方が分からなかった。オーナーに相談してみると荷物を預かってくれるらしい。デリー到着のときもここに泊まればよかったと思うホテルである。
「その間にショッピングでもしていたらいいですよ」
とのこと。ただし、ショッピングは私の趣味ではない。仕方がないのでネットカフェで時間つぶしするしかなかった。ダラムサラのネットカフェは1時間30ルピーだったが、デリーのネットカフェは10ルピーだった。カフェと言っても日本のようにドリンクのサービスはなかったが・・・ちなみにダラムサラで20ルピーだった安定剤はデリーでは10ルピーだ。チャイも前者が5ルピーなのに対して3ルピーと、都会だから物価が安いのか、デリーのほうがなにしろ安かった。
さて、そのネットカフェだが、メインバザールのパハール・ガンジを入って100mくらい行ったところのホテルの3階にあった(と記憶する)。パソコンがズらーっと並んでいて地元のインド人だろう、大勢の人が利用していた。旅行者も多かったかも知れない。当時、メール交換していた女の子数名にメールを送り、探しておいてといわれていたラリー・レヴァン関係のサイトやサルソウルのサイトを検索してはメールに添付して送ったものである。また、帰国の件も伝えておいた。とにかくネットをやっていると時間があっという間にたつのである。私はアルコール依存症の上、ネット依存症かもしれない。ネットアディクト。常時ネットで繋がっていないと不安に駆られえる。そういえばダラムサラでも毎日のようにネットをやりに行っていた。
ネット遊んでいるうちに空港へ行く時間となり、ホテルへ戻った。荷物はちゃんと預かられていて、盗まれているものもなかった。スター・パラダイスには悪いがいインドにはあくどいホテル経営者も多いのである。空港に向かうためにプリペイドタクシーを呼んでくれ、インドに来たときは650ルピーだったタクシー代が250ルピーになった。まあ、メインバザールとマジュヌカティラは距離があるので比較はできないが、安くついたことは確かである。途中、車が別の車にぶつけられ運転手が降りていって怒鳴りあっている声が聞こえたがトラブルはその一件だけで無事にインディラ・ガンジー国際空港に着いた。
空港には着いたものの、まだ搭乗手続きの2時間前だったので軽い食事(マトンカレー)を食べた後、待合室のような場所でボ~~~っとしていた。インドで3ヶ月。長かったようで短かった。インド到着当時からさっきまでの出来事が走馬灯のように頭を巡る。果たしてインドに来て良かったのだろうか?そんな疑問が滞在中何度も頭を過ぎったことはあるが、概ね良かったことにしておこう。ダラムサラで出会ったダンスリゾームのLee氏とは今でも親交がある。また、メールは来なくなったツェリン・ドルジェやロプサン・ダワ・ラ、デラドゥーンかたきたタシ・カイラシや多くのチベット人やインド人と観光客ではなく同じ土地に(3ヶ月という短期間ではあるが・・・)住んでいるもの同士の触れ合いをもつことができた。また、ダンスのワークショップで一緒だった仲間とも友情が芽生えた。そもそもこの旅は最初のきっかけは数行のボランティア募集の掲示板であった。
「ダラムサラには、たくさんのプロジェクトがあります。CADの使える方、チベット人にCADの指導のできる方、お待ちしています」
すべてはここからはじまった。東京の精神病院の一室でプリントアウトされたこの紙を何度も見てはインドに心を持っていかれたのを鮮やかに思い出すことができる。この一文がなかったら私はインドに来ることもなかっただろうし、多くの友人たちと出会う機会もないまま日本で平凡な生活を送っていたことだろう。
搭乗手続きの時間が来たのでターミナル入り口立っているインド人の警備人にエアチケットを見せ、ターミナルに入ると、とりあえずルピーをUSドルに交換した。建前上インドのルピーは国外持ち出し禁止になっている。それにこれをもって成田に着いたとしても両替は無理だろう。
本来であれば航空会社(私の場合エアインディアだ)のチェックインカウンターで搭乗手続きを済ませるが、搭乗手続きの前に、別カウンターにて空港税INR500を支払うことになっている。しかし私が持っていたチケット(90日オープン)にはそれが含まれていたのだろう。別に空港税を払うことなく、そのまま出国審査をすませ、ロビーの椅子で寛いでいた。そのとき、どこかで見たことのある女性が脇を通り過ぎていった。彼女も私に気づいて手を振った。その女性はダラムサラからデリーに帰るバスの中で隣同士だった同じ横浜のご近所さん、ミエちゃんだった。彼女も今日の便で帰るらしい。偶然はそれだけではない。
搭乗ロビーでコーヒーを飲みながら、ついでにタバコを吸いながら、
「インドにどれくらいいたの?」
と聞いてみた。
「3ヶ月。90日オープンで来たからね」
90日オープンチケットで最大滞在するとしたら、行きは私といっしょだ。
「もしかして、行きの飛行機4時間遅れなかった?」
「あぁ~~~~~~そうそう。遅れたね」
ミエちゃんとはインドに来るときも一緒の飛行機、帰りも一緒の飛行機、しかもダラムサラからデリーに帰るバスの中でも隣同士で、自宅も近くなんである。ここまでの偶然ってあるんだろうか?もしかしてシンクロニシティー?
散々待たされた我々はようやく飛行機に搭乗することができ(ミエちゃんの席も近かった)、機内で寛いだ。そしていよいよ離陸。インドとはお別れである。
飛行機の中の様子は別に特筆すべきことはなかった。ただ、バンコク経由なので夜中、ドムアムン空港に着陸し、乗っていたインド人がおそらくバックパッカーであろう日本人と入れ替わったくらいである。
2001年11月28日。朝8時前、いよいよ成田に到着である。
「どうやって帰るの」
ミエちゃんにそう聞くと彼女は私を待っていてくれたようで、
「リムジンバスが箱崎のシティ・エアターミナルまでいくからそこから半蔵門線&東急田園都市線一本で帰れるよ」
「来るときは上野から京成スカイライナーで来たんだけどな・・・」
「それ、一番しんどい方法だよ~」
結局私とミエちゃんはリムジンバスで箱崎まで行きことになった。バスに乗っている間、パソコンをリュックから取り出してダラムサラでやった設計やチョルテン(仏塔)の画像を見せたり、9-10-3のサイト(元データをコピーしていたのである)を見せながら解説しているとあっという間にターミナルについた。
一緒に電車の切符を買うと、
「これからしばらくは日本の物価高にびっくりすることになりそうね~」
電車はこれから出勤するのであろう、サラリーマンやOLが結構乗ってきた。エアインディアのタグ付きの大きな荷物を抱えた2人は相当目立ったにちがいない。電車はインドとは大違いに規則的に動いており、半蔵門~渋谷~三軒茶屋~二子多摩川~溝口~鷺沼~たまプラーザ~あざみ野まであっという間に着いた。横浜市営地下鉄に乗るミエちゃんとはここでお別れである。お互いの電話番号やメールアドレスを交換して、
「また、どこかで会おう」
そう言ってチベット式にカタをミエちゃんの首にかけてやると彼女は微笑んで階段を下りて行った。そして、私の旅も終わろうとしている。今度、いつかまたダラムサラに行きたい(帰りたい=心の故郷となったのだ)と思いつつ、市ヶ尾の部屋にたどり着いた。
「あぁ~~~~~~~~~帰ってきた~~~~~~~~~」

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