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ヒマーチャル・プラデーシュ州とアフロビート

起きたら4時前だった。冷えたコーヒーの残りを飲みながらタバコを1本吸う。今日はブックオフオンラインで買ったコミック20冊が届く予定なので、ゆっくり二度寝もしていられず、そのまま起きていることにした。
19日から読み始めていた「風の記憶―ヒマラヤの谷に生きる人々」を昨日読み終えたので、引き続き棚瀬慈郎の「インドヒマラヤのチベット世界」を読んでいる。本書は、チベット文化圏の西端にあたり、現在はインド共和国に属する山岳地帯・ラホールが舞台である。著者の棚瀬慈郎は滋賀県立大学人間文化学部講師で、専攻は文化人類学、チベット学である。その著者が厳しい環境のなかで編み出された生活の巧みさ、複雑な社会相、濃密な人間関係、宗教的情熱などを、フィールドワークをもとに紹介しているのが「インドヒマラヤのチベット世界」だ。
ラホールはインド共和国のヒマーチャル・プラデーシュ州北部に位置している。ヒマーチャル・プラデーシュ州は、以前には、パンジャーブ地方に含まれ、Chamba、Bilaspur、Bhagal、Dhamiといった諸国が並立していた。グルカ戦争(1814年 – 1816年)を経て英領インド領となり、1948年にインド連邦(1947年 –1950年)の主席弁務官領(Chief Commissioner's Province)として設立された。1950年1月26日、インド憲法が公布に伴いpart C stateとなった。1956年11月1日、連邦直轄領 (インド)となった。1970年12月18日に「ヒマーチャル・プラデーシュ州法案」が議会を通過し、1971年1月25日に成立した州である。
ヒマーチャル・プラデーシュ州と言うと2001年に私はカングラ県のダラムサラにチベット人にCADを教えるために3ヶ月他資材したことがある。その時の日記は別のところで書いたので省略する。ちなみにヒマーチャル・プラデーシュ州をウィキペディアで検索してみると、ダラムサラはガンデンポタン所在地と書かれていて驚いた。ガンデンポタンとは、ダライ・ラマ5世を長とし、ラサを本拠として1642年に成立したチベットの政教一致政府で、「ガンデンポタン」という呼称は、この政府がポタラ宮殿(1660年完成)に移転するまで本拠を置いていたデプン寺の「兜率宮殿」に由来する。よくチベット亡命政府のことをCentral Tibetan Administration(CTA)(中央チベット行政府)という英語名で呼ばれることが多いので、ガンデンポタンという表記に驚いたわけである。
本書の舞台であるラホールはヒマーチャル・プラデーシュ州北端にあり、パキスタンにも同名の街があるので混同しやすい。パキスタンと領有権を争っているカシミール地方の、インド実効支配地域のジャンムー・カシミール州と接している。
ラホールは小さな地域であるが、社会的に見ると複雑な様相を呈している。インドの言語学者シャルマによると、ラホールには異なった言語を持つ7つのグループが存在し、本書の舞台のバガ川流域で言えば、チャンドラ川との合流点から上流のピューカールまでの地域はプナムと呼ばれていて、プナムで用いられている言語は、インドの先住民族の言語との類似性を指摘されているが、プナムより上流のトッドと呼ばれる地域で用いられている言語はチベット系で、全く別の系統に属する。その区別は画然としていて、プナムのピューカールとトッドのティノという村は数キロしか離れておらず、共にバガ川の左岸に位置し、そこに住む人々の服装や顔つき、生活習慣から家屋の作り方まで全く区別がつかないにもかかわらず、使用する言語は全く異なっている。これは、ラホールが文化的にも政治的にもチベット圏とヒンドゥー圏の交差する土地であることを示している。「インドヒマラヤのチベット世界」はこうした特異な地域のフィールドワークの報告である。
とりあえずいつものお約束のブログ(日記)を投稿する。日記自体は2013年に書いたものを投稿していて、文章だけなら既にあるのだが、文章だけではつまらないので、画像や動画を添付することにしている。今日のBGMはユッスー・ンドゥールだ。
ユッスー・ンドゥールは、セネガルの歌手で、セネガルの伝統音楽に、さまざまな民族音楽や欧米のポップ・ミュージックのエッセンスを取り入れ、独自の音楽世界を展開している同国音楽界の大御所である。セネガルの楽器ジャンベを用いた伝統音楽から、カリブ音楽やその他様々なジャンルの音楽を融合したンバラという音楽ジャンルを確立した。2004年、米国の「ローリング・ストーン」誌は、「アフリカにおいて存命する最も著名な音楽家であろう」と評した。
アフリカの音楽というと私はナイジェリアのフェラ・クティとその息子のフェミ・クティが好きだ。フェラ・クティはナイジェリア出身のミュージシャン、黒人解放運動家。サックス、ピアノ、ヴォーカルと多彩な技術を誇るマルチミュージシャンで、アフロビートの創始者としてワールド・ミュージックのジャンルを中心に、音楽界や音楽ファンの間では著名である。「Black President(黒い大統領)」と呼ばれる場合もある。アフロ・スポットと名付けた会場を拠点に活動し、バンド名を「フェラ・アンド・ナイジェリア70」、次いで「フェラ・アンド・アフリカ70」(Fela Ransome-Kuti and the Africa '70)に改名、この頃に上記の音楽性は確立される。これが「アフロビート」の完成である。聴衆の獲得に成功し、アフロ・スポットを「アフリカ・シュライン」に改名し、以後同会場はフェラの活動本拠地となり、聖地として現在も名高い。フェラ・クティを初めて聴いたのは、90年代に西麻布のyellowというクラブでジョー・クラウゼルのパーティーだった。そこでピーク時にジョー・クラウゼルはフェラ・クティの軍隊の襲撃を受けた体験から生まれたアルバムの1曲で、最も著名な作品の1つである「Zombie」をプレイした。
フェミ・クティは父フェラと同様に、ナイジェリアの政治的・社会的問題に強い関心を示し、クティ親子はナイジェリアでも最も政治的なミュージシャンと見られていた。ただし、宗教観については意見を異にした。ドラマーのトニー・アレンは、USブラック・パンサー党がフェラ・クティのバンドに与えた影響について、メディアに語っている。1999年、フジロック・フェスティバルに初出演。2001年、アルバム「Fight to Win」で、コモン、モス・デフ、マニー・マーク、ジャグアー・ライトなどのアメリカのミュージシャンと共演した。フェラ・クティの音楽をもっとダンサブルにした音楽で、中でも「Beng Beng Beng」は多くのディープハウス系DJがプレイしている。「Africa Shrine」というライブアルバムは、フェラの本拠地だったライブ・スポット、シュラインで2004年3月に収録された怒涛の70分は、ライブならではのグルーヴ感と熱気に溢れていて、フェラの「Water No Get Enemy」のカヴァーも収録しており、タワーレコードでこれを視聴した時にはそのブラックマンパワーに圧倒されて震えてしまった。ブックオフオンラインでではあるが、もちろん買った。
11時を過ぎて、アフリカのミュージシャンのCDを聴いてしまい、ニューヨリカンソウルのCDを聴きながらブックオフオンラインから届く20冊のコミックを待っているのだが、まだ来ない。ニューヨリカンソウルはニューヨークのブロンクス出身のルイ・ヴェガとブルックリン出身のケニー・ドープによるハウス・チーム、マスターズ・アット・ワークが中心となった一大プロジェクトである。ちなみにニューヨリカンとは、ニューヨーク生まれのプエルトリコ人のことであり、1990年代には彼らによる「ニューヨリカン文化」が注目を浴びていた。音楽性はラテンやソウル・ジャズといったフレーバーをごちゃまぜにしたような多様性あふれるものだ。
12時前にやっと荷物が届いたので、久しぶりに処方されている向精神薬のフルセットを飲む。いま処方されているのは、サイレース2mg1錠、ドラール15mg1錠、ロドピン25mg1錠、ピレチア25mg1錠、コントミン50mg2錠、パキシル25mg2錠、セルシン2mg2錠である。これでどれくらい眠れるだろうか?

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