46.共通一次
大学共通第1次学力試験は、1979年1月13・14日から1989年1月14・15日までの11年間11回に渡り、すべての国公立大学および産業医科大学の入学志願者を対象として、全国の各会場で共通の試験問題により一斉に実施された基礎学力試験である。一般的な呼称は「共通一次試験」あるいは「共通一次」と呼ばれていた。実施責任者は、国立大学の共同利用機関であった大学入試センター(現在は独立行政法人)である。
前半の1986年1月25・26日までの8年8回は、試験科目が国語、数学、理科、社会、英語の5教科7科目(理科2科目・社会2科目は選択制)で合計1000点満点、かつ、受験生は自己の「共通一次試験」の結果を基に全国の国公立大学および産業医科大学の中から1校のみ(1学科のみ)を志願して2次試験(本試験)を1回だけ受験することができるという大学受験制度であった。
後半の1987年1月24・25日からの3年3回は、毎年変更が加えられる変遷期であったが、試験科目が国語、数学、理科、社会、英語の5教科5科目(理科1科目・社会1科目は選択制)で合計800点満点、かつ、受験生は自己の「共通一次試験」の結果を基に、2次試験の日程別にグループ分けされた全国の国公立大学および産業医科大学の中から最大3校(3学科)を志願して2次試験(本試験)を最大3回受験することができるという大学受験制度であった。
私が受験したのはこの後期の初めである。会場は北海道大学水産学部だった。
今では東京芸術大学の建築はセンター試験で5教科6科目(800点満点。)
【国語】国語(200)
【地歴】世A・日A・地理A・世B・日B・地理Bから1(100)
【数学】数IA・数IIB(200)
【理科】物I・化I・生I・地学Iから1(100)
【外国語】英・独・仏・中・韓から1[リスニングを課す](200[40])が課されていて、本試験では学科の試験はない。これが当時だったら私の合格はほとんど0だっただろう。学科の勉強などしていないのだから。或いは逆に有利になったかもしれない。
芸大に限らず、美大を狙う連中はあまり学科の試験を重要視していない。そのため建築のような学科と実技を両方とも重要視する学科は学科科目がそれなりにできたのなら有利に働く。実際、私が最終的に受かった多摩美術大学の美術学部建築科では、入学後の面接で実技課題の結果を見せられたのだが、色彩構成10点、建築写生12点だった。それでも合格できたのは、学科の成績が良かったのであろう。ちなみに今の多摩美術大学の入試科目は以下のとおりである。私が獲得した学科の点数っていったいどのくらいの点数だったのか、知りたいところである。
美術 / 芸術以外
入試 一般入試
個別学力試験 2教科(500点満点)
【国語】国語表現I・国語総合(古文・漢文を除く)(100)
【外国語】英I・英II(独・仏選択可)(100)
【実技】(300)
実技は専門試験で鉛筆デッサン、色彩構成などコースにより異なる。
ともかく、私が3年生だった時の1987年の共通一次は英語と国語の試験さえすればよかったので、それが終われば、私は試験場を後にした。なんだか自分だけで後ろめたさもあったのだが、「余計な努力はしない」という私のポリシーでそうしたのである。余った時間は五稜郭の今は無き西武百貨店で倉橋由美子の小説をまとめ買いしていた。
後日、学校で共通一次の自己採点の時間があった。他の生徒はその結果によって志望校を選らばなければならない重要な儀式であったのだが、私は東京芸術大学一本狙いである。余計な作業はしない。当時の私には共通一次の成績が悪ければ他の私立美大に鞍替えするつもりはサラサラなかった。もう決めたものは変えられない。良くても悪くても芸大一本狙いだ。その結果、2年も浪人することになったのだが、それはそれで良い意味で、経験にもなり、アイデンティティの形成にも大きく影響した重要な時期であったと正当化している。