ロフトとガラージ
ベトナム戦争後のヒッピー・ムーヴメントの中から、音とダンスによる精神開放をプライベート・パーティーという形で表現し、現在で言うところのアフター・アワーズ・ダンス・クラブのオリジナルな存在となったのが、デヴィッド・マンキューソの「The Loft」である。
1970年に2月14日にデヴィッド・マンキューソが「Love Saves The Day」というバレンタインパーティーを企画し、サルバドールダリの「溶ける時計」をモチーフにした招待状を配って行われたのが「The Loft」の最初のパーティーであり、そこからパーティーは毎週行われるようになり、パーティーが彼の住居式ロフトで行われていたことから、いつしかロフトと呼ばれるようになった。「The Loft」のパーティーは、お酒を飲みながら社交するといった従来のディスコとは異なり、音楽重視のアンダーグラウンドなパーティーだった。
DJのミックスに関しては、フランシス・グラッソが「The Sanctuary」で行ったのが最初と言われる。フランシス・グラッソのプレイは、それまでは1曲ごとに物語が終話していたが、フランシス・グラッソは点と点をつなぎ、線になり、大きな物語を見せ、ビートマッチングの技術と空気を読みダンスフロアを操る才能に長けていることを示していた。
話を「The Loft」に戻そう。デヴィッド・マンキューソは、招待するゲストを厳選し、インビテーションカードを送り、招待状を持つ者のみが2ドルの寄付金で入場することができた。招待客は人種、性別、セクシュアリティの壁が取り払われていて、みんながリラックスし、自由と愛を感じることが出来る不思議な一体感を持っていたといわれている。音楽はロック、ポップ、ファンク、ソウル、ラテン、ジャズなど、デヴィッド・マンキューソが良いと思う曲が選曲され、ミックスはせず、曲の最初から最後までを流していた。一時期はミックスをしていた時代もあったが、最終的には曲をピュアなまま聞かせたいとの考えに至り、ミックスをする代わりに自作のサウンドFX(特殊効果音)ライブラリーを駆使して、曲間に流すなどを行っていた。
「The Loft」のサウンドシステムを担当したのは、「The Sanctuary」のサウンドシステムも担当したアレックス・ロズナーである。アレックス・ロズナーは電気工学を学び、防衛のエンジニアをしていたが、ニューヨーク万国博覧会でステレオサウンドシステムを製作した事をきっかけに、本格的にサウンドエンジニアへと転職し、多くのクラブのサウンドシステムを設計した人物である。初期の「The Loft」はマッキントッシュ製のアンプとAR社製のターンテーブル、クリプシュホーンのスピーカーが設置され、デヴィッド・マンキューソのアイデアでJBLのツイーターを8つ天井に吊るすように追加され、レコード針には菅野義信氏のハンドメイドで本阿弥光悦からインスピレーションを受け命名されたカートリッジ・ブランド「光悦」が使用された。
「The Loft」がクラブシーンに与えた影響力は計り知れないもので、ロフト・ベイビーズと呼ばれた熱狂的ファンとして、ニッキー・シアーノ、ラリー・レヴァン、フランキー・ナックルズ、ダニー・クリビッド、フランソワ・ケヴォーキャン、デヴィッド・モラレスなど、多くのDJがロフトに影響を受けたことを公言している。
今に伝えられている「The Loft」でプレイされた曲を以下に挙げておく。
そののち、ニューヨーク・ダンス・クラブ黄金期の象徴的存在となるクラブが1976年にマンハッタンのSoHoの西、キング・ストリート沿いにある2階建ての建物にオープンする。「Paradise Garage」である。客層は主にゲイの黒人であり、伝説的なDJ、ラリー・レヴァンがプレイしていた。ディスコ・ミュージックはもちろん、ロック、ソウル、ファンク、ラテン、ニューウェーブ、ヒップホップなど、様々なジャンルのレコードを、歌詞、曲調、音色などの要素を重視し、フロアで踊っているクラウドにメッセージを投げかけるようにミックスをしていた。また、音響について独学で研究し、パラダイス・ガラージには自身がデザインした「レヴァンズ」というオリジナルのサウンドシステムを導入した。例えば、最初はヴォーカルの音量を絞った状態で曲を流しはじめ、強調したい歌詞の部分でヴォーカルの音量を上げるなど、そのサウンドシステムだからこそ可能なプレイでお客さんに様々なメッセージを送った。クラウドにはマイノリティーが多く、辛い日常を過ごしていた人が多くおり、ラリーはDJを通じて彼らに様々なメッセージを送り、彼らを勇気づけていった。ラリーとお客さんとの関係はまるで教会における牧師と信徒のような、一種の宗教的な関係に近かったという証言もあった。また、ラリーは独学ながら優れた音響の専門家でもあり、エンジニアのリチャード・ロングと共にパラダイス・ガラージに自らの手で構築したサウンドシステムは大音響でありながら非常にクリアな音で、ダンスフロアの中央にいても容易に客の間で会話ができたとも伝えられている。
多くのニューヨークのDJが「Paradise Garage」とラリーのDJスタイルに衝撃を受けてDJの道へと進み、現在に至るも史上最高のクラブの一つとして語り継がれている。ラリーが「Paradise Garage」で掛けていたような音楽やその進化した形の音楽はガラージと呼ばれるが、これはハウス音楽や、テクノ音楽に大きな影響を与えた。また、そのサウンドシステムもその音質の高さから未だに伝説として語られている。
「Paradise Garage」の常連だったアーティストの一人にマドンナがいる。まだ少しぎこちなかったパフォーマンスが愛らしいデビューシングル「Everybody」のミュージックビデオはパラダイス・ガラージで撮影されている。ラリー・レヴァンの古くからの友人でDJのフランキー・ナックルズがシカゴで生み出したハウスミュージックが、ニューヨークでいち早く紹介された場所も「Paradise Garage」だった。当時絶大な影響力を持っていたラリーにより、ハウスミュージックは急速にニューヨークに浸透していった。ラリーがプレイした翌日には、レコード屋の店頭から姿を消すレコードも多かったといわれていた。
80年代半ばになると、ディスコ・カルチャーに大きな影が覆い始める。ディスコ・カルチャーの中心だったゲイの間で、AIDSが蔓延する。次々と仲間が不治の病に侵され、亡くなっていき、同性愛者に対する差別も増していく状況に、シーンは混乱していった。夜遊びをする人は激減し、多くのゲイディスコが閉店していったといわれる。そんな中、「Paradise Garage」のオーナーだったマイケルも病に侵されてしまう。もともと土地の大家との契約が10年だったこともあり、87年9月、「Paradise Garage」は惜しまれつつクローズした。
「Paradise Garage」でラリー・レヴァンがプレイした曲はガラージ・クラシックスと呼ばれ、今もコアなファンに愛されている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?