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19.ミス・コンテスト

学園祭つながりでもう1話。函館ラ・サールの学園祭は、例年7月の第3土日に行われている。そのうち土曜日の夕方からは「中夜祭」なるものが組まれていて、学園祭では一番盛り上がるイベントだ。石川啄木の娘である石川京子の出身校である遺愛女子高等学校や函館白百合学園高等学校、函館女子商業高等学校などの女子高生も大量に出没するので野郎たちのやる気もフル回転する。やることもそんなに「おとがめ」がなかく、生徒たちの独壇場と化していた。以前はロケット花火を飛ばして盛り上げていたらしいが、負傷者が出たことから中止になったそうである。
ステージ上の出しものとしては、近隣の女子高生をスカウトした「パンチでデート」などのほのぼのとした企画や、じゃんけん大会やクイズ大会、在校生場バンドの演奏、各クラブが練りに練った出し物(剣道部は毎年そのクオリティーでは傑出していた)など無難な出し物がほとんどであるのに対し、一つだけボルテージが最高潮になるイベントがあった。その名も「ミス・ラ・サール・コンテスト」。1960年(昭和35年)の創立当初の1期から44期くらいまで連綿と受け継がれてきた企画である。「中夜祭」を見に来たお客さんはこれが目当てで来ていたようなものである。「男子校なのにミスコン?」と思われるかもしれないが、もちろん男子校なのでミスは居ない。そこで急ごしらえをした美少年にメイクを施し衣装を着せて口パクでステージに上げるのだ。
女装コンテストと言えば、大体は「下手な女より女性的」、言葉を変えれば男性から見た理想の女性像を演じる(歌舞伎の女形のようなもの)か、さもなければ受け狙いのキワモノ(お笑い芸人の女装キャラのようなもの)か、その両極端のコントラストが面白い所だが、それは母校のミスコンでも発揮されていた。
ところが、である。我々25期生の1期か2期上にYさんと言う先輩がいて、「ミス・ラ・サール」史上初の3連覇をされた絶世の美女(?)がいた。その後、Yさんは東北大医学部に進学した。これを才色兼備と言わずになんと呼べばいいのだろう。ちなみにYさんの対抗馬はY’さんで原田知世の純愛物語を歌って、「中夜祭」を最高潮に盛り上げた。
「ミス・ラ・サール」の候補者の衣装やメイクなどの用意は周到に行われていたそうだ。そこは金のある私立学校である。プロを雇ったに違いない。プロの手にかかると美少年はいとも簡単に美少女に早代わりするという証明であろう。その後、その先輩がどういう道を選んだのかは不明であるが、ばら色の未来が待っていたとは思えない。実際、函館市内の丸井から来ていた美容部員がヘアメイクや衣装の設定までやってくれていたそうである。「ミス・ラ・サール」に出る人は、確か早い時間から美容室に行って、出番が来るまで、誰にも会わないようにされていた。ちなみに交換留学生でオーストラリア(キャンベラ)から来ていたA・Fも白人の美少年として「ミス・ラ・サール」に出場していたが、私の記憶するところでは優勝はしていない。

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