大峯奥駈道
今から10年以上前の話になるが、夏、8月の某日に大峯奥駈道縦走にチャレンジしたことがある。
大峯奥駈道は、修験道の根本道場である金峯山寺などがある奈良吉野山と熊野三山(ゴールは熊野本宮大社)を結ぶ、もとは修験道の修行場として開かれた道であり、熊野古道の中で最も険阻なルートをなす。修験道の開祖とされる役行者が飛鳥時代に開いたとされる。今日、一般的に大峰山(大峯山)といえば山上ヶ岳を指すが、大峯奥駈道でいう「大峯」とは、吉野から山上ヶ岳を経てさらに奥の山々、そして最終的には熊野三山に至る大峰山脈を縦走する修行の道全体を指している。道中の最高峰は八経ヶ岳の1915m。
吉野から熊野まで、神社や寺のほかに、大峰山脈の主稜線沿いに75の靡(なびき)と呼ばれる行場(霊場)があり、修験者は5月3日の大峯山寺の戸開けから9月23日の戸閉めまでの間に奥駈修行を行なう。奥駈は修験道でもっとも重視される修行であり、神仏が宿るとされる岩や峰、滝などで祈りを捧げる。宗教上の理由から、山上ヶ岳の北「五番関」から南の「阿弥陀ヶ森」までは女人禁制。また、大峯奥駈道は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして2004年に世界遺産に登録されている。大峯奥駈道の歩行距離と獲得標高は、カシミール3Dで計算してみると、総距離が約90km、登りの合計が7747m、下りの合計が7919mとなる。非常に長い山道なので、時間があるか、体力がある方でないと一度に歩ききるのは難しく、スタートからゴールまで、トレーニングを積んだ人間でも一般的には6日間かかる。関西では古くから男子が15歳になると必ず山上詣りとして、山上ヶ岳の有名な行場「西ノ覗」などで修行させる。
その日は早朝に起床し、始発の地下鉄で天王寺へ向かい、近鉄南大阪線のあべの橋駅から吉野行き始発に乗り込んだ。乗客はまだほとんどいない。電車の窓から日の出を迎える。
近鉄南大阪線は、藤井寺駅付近までは住宅街や学校など多くの建物が立ち並ぶ間を抜けるように走り、道明寺駅あたりから畑が目立ち始め、古市駅から先は一気にのどかな田園風景へと変わる。高見ノ里駅以東は竹内街道や長尾街道と並行しているために沿線には史跡や古墳等の歴史的建造物が多い。また奈良県内では二上山や葛城山の山なみと並行するため、季節によって美しく様変わりする山肌を楽しむこともでき、花や紅葉の見ごろになると急行の臨時停車を実施する駅も少なくない。上ノ太子駅周辺ではブドウやミカンの栽培が盛んで、車窓から果樹園が見られる。上ノ太子を出てほどなく線路は国道166号と踏切で交差し、山裾を縫うように蛇行して走り、4km以上に亘る33.3‰の連続上り勾配にかかる。蛇行のために南阪奈道路を2度アンダーパスし、線路は羽曳野市から太子町に入る。そこからしばらくは右手を奈良県道・大阪府道703号香芝太子線が並行する状況が続くが、この道路は途中で線路を跨いで左手側に移る。この線路を跨ぐ場所が穴虫峠であり、大阪府と奈良県の府県境にあたる。奈良県香芝市に入ると左手に見える県道703号は国道165号と合流し、大和高田バイパス(国道165号バイパス)と側道(従来の国道165号)に分かれ、南大阪線はバイパスを潜り、国道165号と並行する。ここから先はしばらく二上山の裾を沿うように走るため、右手方向には二上山のフタコブラクダ状の稜線が美しく見える。この間に二上山駅、二上神社口駅、当麻寺駅を通り、線路は葛城市に移る。橿原神宮前駅から近鉄吉野線に入り、山岳区間を走ると終点吉野駅についた。
吉野駅の傍の千本口駅から吉野山駅までは吉野ロープウェイに乗らなければならないが、まだ始発が運行してなかったのでしまし待たされる。吉野山駅からは正式には蔵王堂のある金峯山寺まで歩き、そこからが大峯奥駈道の出発になるのだが、私はちょっとズルさせてもらって、奥千本までバスに乗ってしまった。
奥千本から歩き始めたが、整備されている道もあるものの、殆どは山道で、当面の目的地である山上ヶ岳に近づくにつれて道は険しくなる。持ってきた食料はカロリーメート数箱だけである。それよりも心配なのは500mlの水筒の水で、途中、水の確保に気をつけなければならない。
青根ヶ峰、莇岳、大天井ヶ岳(大峯奥駈道の最初の難関と言われる)、小天井ヶ岳までは難なく歩くことができたが、小天井ヶ岳の五番関の女人結界以降が大峯奥駈道の本番で、道はさらに険しくなる。ここから山上ケ岳宿坊まで約3時間。急勾配を直登しなければならないとことにはロープが釣り下げられている。山上ヶ岳には中学校の林間学校で登ったことはあるのだが、その時は大峯登山の玄関口である洞川から1日で往復したので、こんなに長距離は歩いておらず、今回は何度か点在する山小屋に泊まることになる。
五番関の女人結界を過ぎると、すぐに「蛇腹」と呼ばれる難所に差し掛かる。「蛇腹」とは、岩の形状が蛇の腹のように縞模様の節理状をなしている10mほどの岩場で、見た目ほど難しくないが、慣れない人は鎖に頼って登っていく。よくここが「油こぼし」と勘違いしている人もいるらしい。油こぼしは、急斜面にジグザグに設けられた木制の階段の行場を「裏階段」または「油こぼし」と呼んでいて、行者は「出迎え不動」でお経を唱え、「松清茶屋」で荷物を預け、表行場の準備をする。そして行場「鐘掛岩」、「裏階段(油こぼし)」で六根清浄、懺悔懺悔と唱和し上る。上りは滑る感覚の殆ど無いこの階段、下りは同じ階段かと思うくらい非常に滑るので、「鐘掛岩」から「西の覗き」の間の、「上り」、「下り」はくれぐれも注意が必要である。無意識のうちに、この道に入り、下る方が少なくなく、大小の事故の多いのが「油こぼし」といわれている。
「蛇腹」をクリアすると、洞辻茶屋、陀羅尼助茶屋、油こぼし、鐘掛岩、西ノ覗を経て山上ヶ岳頂上の大峯山寺に到着した。さすが山頂だけに霧がかかっており、時刻も夕方が近づいていた。大峯山寺はひっそりと閉ざされており、とてもお参りできる雰囲気ではない。しかも、暗くなるまでに今日の宿舎の小篠宿の避難小屋にたどり着かなければならないので、先を急ぐことにする。
ところで、この奈良県吉野山にある金峯山寺蔵王堂(354m)から24㎞先にある山上ヶ岳(1719m)頂上にある大峯山寺本堂まで、標高差1355mある山道を往復48㎞、1000日間歩き続ける大峯千日回峰行を大行満した大阿闍梨がいる。史上2人目というからすごい。しかも、私と同い年である。仙台市・秋保 慈眼寺住職塩沼亮潤大阿闍梨(52歳)。毎年5月3日から9月3日まで年間4ヵ月を行の期間と定めるので、9年の歳月がかかる。行に入ると毎日19時に就寝、23時30分の起床と共に滝行で身を清め、装束を整えて午前0時30分に出発。道中にある118か所の神社や祠で般若心経を唱え、勤行をしながらひたすら歩き続ける。 持参するものはおにぎり2つと500mlの水。これを食べ繋ぎながら山頂到着8時30分。帰山するのは15時30分。1日16時間歩き続け下山してから掃除洗濯、次の日の用意など身の回りのことを全て行者自身がするため、約4時間半の睡眠で行に臨む生活が続く。このような生活が続くと1ヶ月で栄養不足のため爪がぼろぼろと割れ、3ヶ月目に入ると血尿がでるほど衰弱する。しかし、どんな状況になっても1度この行に入ると途中でやめることは決して許されない。万が一途中で行をやめざるを得ないと判断したならば、所持している短刀でもって自ら腹を切り、行を終えるという厳しい掟がある。千日回峰行者の衣装は「死出装束」といい、紐を含め全てが真っ白。 肉体的にも精神的にも限界に近い非常に追い込まれた極限の中での行は、一瞬一瞬が命がけ。 1991年5月3日より述べ4万8000キロを歩き、1999年9月3日に大峯千日回峰行を成満。しかも、この行は歩くだけではない。四無行と言って、断食、断水、不眠、不臥を9日間続ける修行がある。 これは、食べず、飲まず、寝ず、横にならずこの4つがないということで四無行という。四無行は大変危険な行で、無事生きて行を終える確率が50%。塩沼亮潤大阿闍梨は、大峯千日回峰行を成満した翌年の2000年9月28日から10月6日にかけて四無行を成満。この塩沼亮潤大阿闍梨を紹介した動画があるので、是非見ていただきたい。
大峯山寺から小篠宿の避難小屋までは、地図では40分の行程だが、一向に小屋が見つからない。あたりはどんどん暗くなり、小屋にたどり着くまでに日が暮れてしまった。暗闇では行動できない。水音を頼りに水場に行って気を落ち着けることにする。最悪の場合、ここで夜明けを待つことになる。夏とは言え、夜の寒さはどうなるかわからない。遭難もやむを得ないと半ば諦めて、懐中電灯で気持ち周囲を照らしてみると、かすかに小屋らしきものが照らされた。急いで小屋に駆け込んで、睡眠薬と精神安定剤を服用し、一夜を過ごす。
翌日は6時ころに起床し、行動を開始する。今日の目標は、弥山小屋か、できればその先の仏生ヶ岳の手前にある楊枝ノ宿小屋で泊まりたい。
とりあえず、目の前の大普賢岳を目指して歩き始めると、途中の阿弥陀ヶ森分岐のところで女人結界があった。熊野本宮方面や川上村の柏木方面から山上ヶ岳を目指すなら、ここから先は女性は入れない。
順調に大普賢岳、国見岳、七曜岳を通過し、行者還岳を越えたところで急に雹が降りだした。この天候の中、山行きを強行するのは無謀なので、急いで行者還小屋に避難して、場合によればここで一夜を過ごすことにする。中途半端な時間に歩き始めても日が暮れても小屋がない。ここまで来るあいだに手を怪我していて、巻いていたタオルが血で真っ赤になっている。薬など持ってきていないので、ただひたすら止血する。雹はどんどん激しくなり、小屋の屋根にバリバリ音を立てて降り注ぐ。轟音の中、睡眠薬と精神安定剤を服用してとっとと眠りについた。
ちなみに、行者還岳は、奈良県の天川村と上北山村にまたがる標高1,546mの山であるが、その険しい山容により、役行者をして一度は引き返させたという伝承からこの名が与えられている。
翌日早朝、霧の中を歩き始めた。しばらくクサタチハナの群落の中を進み、昨日、もしかしたら使うことになるかもしれないと思っていた避難小屋を見ると、完全に荒廃していて朽ち果てていた。これではとても泊まれない。さっさと立ち去ることにする。その後、順調に弁天ノ森、聖宝ノ宿跡とやってきたのだが、ここで、今回最大の難所が待ち構えていた。難所といっても険しい岩場ではなく、延々と続く弥山への登りの木製の階段がひたすら続いていたのである。はじめはなんともなかったのだが、次第に体力が尽きてきて、10段登るごとに10分休憩を何度も繰り返す。弥山から降りてきた人や、私を追い越してこれから弥山に登る人から頑張れ!!!頑張れ!!!と励まされるが、体が言うことを聞いてくれない。好日山荘のおとな女子登山部レポートでは、聖宝ノ宿跡から弥山小屋までの所要時間が48分と書いてあるがとんでもない。私はおそらく2時間くらいかかったと思う。死ぬような思いで弥山三上にたどり着き、弥山小屋の前のベンチに倒れ込んだ。
弥山は、天川村の南東部、大峰山脈の中央部に位置し、山域は吉野熊野国立公園の指定区域内にあり、標高1895mは奈良県下で八経ヶ岳に次ぐ高度となる。古くは深山や御山と書かれ、仏教用語の須弥山から転じて弥山と呼ばれるようになった。山頂から奈良時代の遺物が出土し、平安時代以降は修験道の行場として使われてきた。弥山は大峯奥駈道にある75の靡のうち第54番の行場である。弥山は第二次世界大戦後に女人禁制が解かれた。また、山頂の弥山弁財天社(弥山神社)は麓にある天河大弁財天社の奥の院にあたる。
さて、ここからどうするかが問題となるが、心は完全に折れていた。とても大峯奥駈道縦走を続ける余裕は失っている。自己正当化するならギブアップするのも一つの勇気である。残念ながら私の大峯奥駈道はここまでと諦め、弥山小屋で水を買い、周囲で作業していた人からポカリスウェットとコーラをもらって天川村の川合に向けて山を降りることにする。
途中、狼平避難小屋の前で水彩画を描いている人にこの先のルートを聞こうと思って話しかけると、なんとなく話し込んでしまい、いま描いている風景画が描き終わるまで待ってくれたら、ミタライ渓谷のところに車を止めているので、そのまま近鉄の下市口の駅まで送ってくれるという。まさに山の中で神様に出会った心境である。結局、狼平避難小屋で2泊し、私の大峯奥駈道縦走チャレンジは終わることになった。最後に、狼平避難小屋の夕食でご馳走になったガソリンバーナーで温めた非常用のコメの飯は涙が出るほど美味かった。