見出し画像

マヌスクルス 第一指 Xその2

第二話 侵略生物

「おーい兄ちゃん大丈夫かー? 生きてるかー?」

 ……誰かの声で目を覚ますと、見知らぬおじさんがバイクに乗ったまま私に声をかけていました。荷台の荷物を見るに、新聞配達員のようです。
 私は仰向けで地面に寝転がっており、何か言葉を返そうとしましたが、上手く言葉が出てこず、淀んだ沼の底へ沈んでいるようでした。必死に首だけ動かし、大丈夫、というように、うんうんと縦に振ってみせました。
「飲み過ぎたか? とりあえず生きてはいるな。申し訳ないが、忙しいんでもう行くけどよ、とにかく早く家に帰った方がいいぜ。顔色もすげえ悪いしな」
 おじさんはそう言い残すと、私が入って来た道の方へ、バイクでブウンと行ってしまいました。せめて体を起こすくらいしてくれてもいいのに、と思いましたが、おじさんも仕事の途中でそれどころではないのでしょう。

 何とか自力で上体を起こしたものの、頭は強烈に痛く、バイクが残して行った排ガスの臭いで気分が悪くなりました。
 周りを見渡すと、あのまま道路に倒れ込んでいたようで、すでに空は白んできており、鞄から携帯を取り出して時刻を見ると、朝の四時を回ったところでした。意識を失ってから数時間も経っていたようです。一応、財布の中身なども改めてみましたが、幸い何も盗られてはいないようでした。
 しばらくその場でぼんやりしていましたが、だんだんと思考力が戻ってきて、意識を失う前に見た光景が脳裏に蘇りました。

「……そうだ……あの変なヤツだ……アイツだ……」そう呟きながら、這うようにして電柱に近付き、恐る恐る裏側を覗き込みましたが、やはり、というか、もうそこには何も居りませんでした。
 しかし、つい数時間前のことで、夢や幻であろうはずはなく、はっきりとあの生き物の姿を覚えています。確実にあの生き物は存在したのです。
 額を押さえて頭痛を堪えながらやっと立ち上がり、辺りの様子を窺いました。まだ街はシンと寝静まっています。

 とりあえず動いてみようと、まずは突き当たりから左右に伸びた路地を右側へと進んで行きました。しばらく行くと、またビルの裏へ行き当たり、さっきと同じように左右へ路地が続いています。
 右側は、路地というよりビル同士の隙間という感じで、人ひとりがやっと通れるほどの狭い道があり、駅から歩いてきた線路沿いの通りへ抜けているようです。抜ける先のところに、道を塞ぐようにして背の低い看板が置いてあるのが見えます。

 左側は飲み屋などの裏手らしく、元々が狭い道のうえに、積まれたビールケースや土だけ残った鉢植えなどが乱雑に置かれ、狭い道を更に狭っ苦しくしていましたが、それでもこちらは右側の道よりは広く、まだ道として機能しているようです。障害物に触れないよう注意しながら先へ抜けると、二車線の道路へ出ました。もう少し時間が経てば多少は交通量も増えるのでしょう。道の向こう側の先に、早起きのお爺さんが柴犬を連れて散歩している後ろ姿が見えました。

 そこで踵を返してまた倒れていた電柱のところまで戻り、そのまま真っ直ぐ道を進んで行くと、二車線のそれなりに大きな道路へ出て、ちょうど物流のトラックが目の前を通り過ぎて行きました。道路に面して酒屋などが立地しており、その前には狭い歩道があります。道路に沿って左手に踏切が見えました。当初の目的だった、北口方面へ抜ける踏切のようです。
 ここに来てかなりの疲労を感じた私は、一刻も早くまともな寝床で休みたくなりました。そこでこのまま左手の踏切を越え、帰宅することにしたのです。

 アパートの階段を手をつくようにして上り、動きの悪い鍵をじれったく回してようやく家に入ると、靴を脱ぐなり玄関の床に倒れ込みました。頭はガンガン、喉はカラカラで、しばらく動けずにいましたが、どうにか起き上がって頭痛薬を探しました。あちこちひっ掻き回すも見当たらず、仕方なくの代用として、風邪薬を大量の水で飲み下しました。

 今日も午後一から仕事があったので、とりあえず目覚ましだけはセットすると、四月になってもまだ出してある炬燵にもぐり込んで丸くなりました。早く眠りたいのに頭痛が酷くて寝付けません。ひょっとして例の気持ち悪い生き物がこっそり付いて来たのでは? など妙な不安にも駆られ、炬燵の中を覗いてみたりしましたが、当然、何も居りませんでした。

 今日の出来事は、一体何だったのでしょう。
 路地で見つけた奇妙な生き物……そして突然の昏倒……その時に感じた首すじの鋭い痛み……。

 気絶する寸前を思い出して首すじに手をやると、僅かに腫れているような箇所があります。慌てて起き上がって鏡で確認してみると、ぷつんと赤い虫刺されのような痕が付いていました。今まで頭痛の方に神経を取られて気付きませんでしたが、押すと疼痛があり、それも皮膚の表面だけではなく、筋肉までも痛みます。これは以前、A型肝炎の予防接種を受けた時の様子に似ていました。そうすると、注射器で麻酔薬のようなものを打たれて眠らされたのでしょうか? でもあの時、背後に人の気配は無かったような……。

 夢中になっていて気付かなかったのかもしれませんが、仮に注射を打たれたとして、一体何の理由で? よく分かりませんが、あの生き物は何か特別な、見てはいけないものだったのでしょうか。しかし、そこまでのものなら、いっそのこと殺されていてもおかしくはないはずです。どうして眠らされただけで済んだのか。ひょっとしたら麻酔薬ではなく、何か遅効性の毒物で、結局このまま少しずつ体が弱って死んでしまうのでは……。次々と恐ろしい考えが頭に浮かんできます。

 ……少し冷静になろうと思いました。——そういえば、A型肝炎の予防接種を受けたのは、大学生の頃、一番仲の良かった友人に誘われて、人生でたった一度だけの海外旅行、インドへ行った時の事です。日本とはまるで文化が違っていてカルチャーショックを受けましたが、良くも悪くも大らかで、日本のようにギスギスしたところがなく、意外と私には水が合っているように感じました。

 あんなに仲の良かった友人とも、大学を卒業してからは疎遠になり、もう連絡先すら分からなくなってしまいましたが、一緒に留年して、海外旅行して、あの頃はまだ人生を謳歌していた気がします。一体何を間違えてこうなってしまったのか……彼も何処かで元気でやっていると良いのですが……。


「ピピピピッ!ピピピピッ!」
 ……目覚ましの電子音が神経繊維を直接指で弾いてくるように煩く感じ、苛つきながらスイッチを叩くようにして止めました。もう仕事に出かける準備を始めなければいけない時間です。色々考えたり思い出したりしているうち、いつの間にか寝てしまったようでした。眠気と疲れは全く取れていませんが、幸い頭痛はだいぶ治っており、少しだけ元気が出ました。

 昨日の事は警察に届けた方がよいのでしょうか。しかし、前に財布を拾って交番に届けた際、まるで私が盗んだかのような態度を取られて不愉快な思いをしたので、どうも警察は信用できませんでした。それに、こんな荒唐無稽な話を警察が信じてくれるようにも思えません。若造の警察官に嫌味っぽく、「でも、何も盗られてはいないんですよねえ、夢でも見たんじゃないですか。……もしや、変な薬でもやってるんじゃあないでしょうね?」などと言われ、下手をすればあらぬ疑いまでかけられてしまう場面が想像できました。

 誰かに相談しようにも、彼女はおろか、現在では友人すら一人残らず疎遠になっていたので、独りでどうにかするほかありませんでした。
 とりあえずは仕事から帰ってまた考えようと、着たままだった昨日の服を脱いでシャワーを浴びました。浴室から出て時計を見るとギリギリの時間になっており、びしょびしょの頭のまま下着と靴下だけ履き替えてまた昨日の服を着ると、慌てて家を飛び出しました。

 電車の閉まる寸前に滑り込み、両膝に手をつき息を切らしていると、説教がかった言い方で「危険ですから駆け込み乗車はおやめくださいねー」というアナウンスが車内に流れました。みんなが私を見ているような気がして恥ずかしくなり、「でも一本逃すと仕事の時間に間に合わなくなるんですよね」と、心の中で言い訳しながら、ひとつだけ空いていた席に、急ぎ隠れるようにして座りました。

 電車の窓から、昨日の「旅人馬」たびびとうまならぬ「旅人鳥」たびびとどりの看板が見え、直ぐに視界から飛び去ってゆきました。
 電車に揺られてウトウトしながら、「よし、今度はもっと明るい時間に、もう一度あそこへ行ってみよう」と考えました。乗り越さないよう注意はしていたものの、いつの間にか居眠りしていたらしく、ふと気付くと既に目的の駅に着いており、閉まる寸前のドアをギリギリですり抜けて、アルバイト先のスーパーへ向かいました。
 仕事の間中、脳内シアターで昨日の出来事が上映されていましたが、逆にそのおかげで寝不足と疲れを紛らわすことができ、何とか無事に仕事を終えました。スーパーの裏口から出て帰ろうとすると、「あっ! ちょっと待って!」と、急に店長に呼び止められたので、「やはり知らぬ間に何かやらかしてたか。ひょっとしてレジ締めで違算金でも出たかな」と、怒られるのを覚悟しましたが、店長は急いで事務所兼自宅になっているスーパーの二階へ上がり、直ぐに戻って来ると、「先月はご苦労様でした。あんまりシフト入れてあげられなくて申し訳ないですね」と言って、貰いそびれていた給料明細を渡してくれました。

 そもそも私は、充分に人員が足りているところを、店長の好意だけで雇ってもらっており、シフトに入れる日数が少なくてもしょうがないのですが、丁寧に謝られてしまって、申し訳なくもありがたい気持ちになりました。
「いえいえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」と挨拶して、仕事先を後にしました。
 帰りの電車でも、吊革に掴まったまま居眠りしてしまい、危うく乗り過ごすところでしたが、また閉まる寸前のドアをギリギリですり抜け、そのままの勢いで走って帰りました。とにかく早く家に帰って休みたかったのです。

 帰宅して玄関のドアを後ろ手に閉めると、昨日から今日まで続いていた長い一日が終わり、ようやく一段落ついた気がしました。昨日の出来事のせいで、必要以上にドアの施錠を確認すると、ようやく安心して炬燵に座りました。店長がいつも「他の人には内緒ですよ」と言ってこっそりくれる、廃棄予定の弁当をありがたく頂くと、強烈な眠気がやってきて、そのままゴロリと横になりました。

 明くる火曜日、目が覚めて時計を見ると、もう昼近くになっていました。よほど疲れていたのでしょう。幸いにも頭痛はすっかり消え去り、体調も回復しました。毒を盛られたのでは? などと心配していましたが、取り越し苦労だったようです。
 ようやく冷静に考えられるようになり、今日は仕事も休みなので、ゆっくり落ち着いて、昨日起こった出来事を思い返してみました。

 まず、偶然通りかかった路地の入り口で、妙な声を聞いたところからです。そして路地へ入り、突き当たりの角で電柱の裏に生き物を見つけて観察しているうち、突然首すじの痛みに襲われ気絶してしまったのです。
 まったくもって奇妙な出来事でした。最初に聞いた声は、あの生き物の声で間違いないでしょう。わざと人間のような、いやらしい声を出して私をおびき寄せていたのかもしれません。しかし、何の目的で? しばらく考えを巡らせていましたが、改めてあの生き物の姿を思い返してみたとき、思わず「あっ!」と独りで大声を出してしまいました。思い至ったのです。この状況は、リドリー・スコット監督の映画『エイリアン』ではないかと。

『エイリアン』は、地球外生命体ゼノモーフエイリアンが、人間の体を宿主として成長し、次々と人間を殺戮する映画ですが、人間の体に寄生する際、卵から孵ったフェイスハガーと呼ばれる節足動物のような生き物が、人間の顔面に張り付いて体内に幼体を送り込む描写があります。私が見たあの生き物は、このフェイスハガーのようなものだったのではないでしょうか? あの生き物も大きな蜘蛛のような形をしており、映画のフェイスハガーと似ていました。まさか私もエイリアンに寄生されてしまったのでは……。

 映画では、仲間達との食事中、寄生された人物が突然苦しみだし、チェストバスターと呼ばれる、蛇のような形態に成長したゼノモーフが、体内から腹を食い破って飛び出してくるのです。……どうも気分が悪くなってきましたが、あの生き物がエイリアンかどうかはさておき、気絶した理由は何だったのでしょう? 直接的な原因は首から何かを打ち込まれたせいですが、肝心なのは、それがどのようにして行われたのか? です。

 当初考えたように、誰かに麻酔薬を注射されたとするのが妥当なのですが、あの時は振り返る間もなく直ぐに意識が遠のいてしまい、人の気配すら感じ取れませんでした。……しかし、本当に人ではなかった可能性も否めません。映画の見過ぎかもしれませんが、あの生き物が、一匹だけではなく二匹、いや、もっといると考えたらどうでしょう。私に仲間を見つけられてしまい、それを助けるために毒針のようなものを刺して私を失神させ、その隙に逃げたとは考えられないでしょうか?

 弱って動けないように見えましたし、最初に入り口で聞こえたのは、仲間に助けを呼ぶ声だったのかもしれません。覚えている限り、あの生き物に毒針のようなものは見当たりませんでしたが、お腹の方までは見ていませんし、かなり暗かったので見落としていた可能性はあります。ひょっとしたら雌雄で体が違っており、どちらかにしか毒針はないのかも。確か、カモノハシはオスだけ後ろ足に毒針を持っていたはずです。そう、あの生き物は顔に幅広のクチバシがあり、カモノハシに似ていると言えなくはありません。それに、左右で前後にずれている特徴的な後ろ足をしていました。あそこに何か秘密があるのかも……。

 ひとしきり考えていましたが、せっかくの休みですし、何かしらあの生き物の手がかりが掴めるのではないかと、倒れていた場所を探索しに行こうと決めました。きっと何か見落としていたものがあるはずです。まずは予習に、ストリートビューで例の路地を見てみようと思いました。駅名で検索し、昨日と同じように駅から歩いて行きます。しかし残念な事に、路地の入り口までは行けますが、中にまでは入れません。入り口から中を覗こうにも、入り口の位置に立ち止まれないようになっています。

 踏切へ向かう道路からも、飲み屋の裏手を抜けた先の道路からも同様で、都合が悪い事に、あの路地裏にだけ入れないようになっていました。周辺の同じような路地は入れるのにどうして……何らかの意図が隠されているように感じるのは考え過ぎでしょうか。いや、どう考えてもおかしい気がします。しかし理由はどうあれ、入れないものはどうしようもありません。それ以外にも、この辺りで変な生き物が噂になったりしていないか、調べてみました。

 地域名に、「変な生き物」、「目撃」など、考え得るワードを色々組み合わせて検索しましたが、特に何もヒットしません。各種SNSやブログも検索しましたが、そのような話題は見当たりませんでした。
 未確認生物、所謂UMAユーマではないかと、馴染みのオカルト系サイトを巡ってみましたが、こちらも手応えはなく、少なくともネット上では手がかりを掴めませんでした。ここはもう行動するしかないようです。

 家の中を見渡し、いざという時に何か武器になりそうなものを探しました……が、まるで見当たりません。無自覚のミニマリストを自認する私の家だけあって、そもそもこの家にはもの自体ほとんどありませんでした。せいぜい、漫画本ばかりの本棚くらいです。こんな事になるなら、中学の頃に雑誌の通販で買ったヌンチャクを捨てなければよかった……しかし、嘆いていても始まりません。よく探せばきっと何か使えるものがあるはず。

 ——入念な家宅捜索の結果、プラスドライバーとバールしか見つかりませんでした。ドライバーは確か、組み立て式のテレビ台を買った時に、おまけで付いていた安っぽいもので、あまり武器として使えそうにありません。

 バールの方は、この家に越してきた時、改装業者が忘れて帰ったのか、シンクの脇に放置されていたものでした。迷惑だなあと思いましたが、ひょっとしたら後で取りに来るかもしれないと、シンク下の収納に放り込んだまま、それきりになっていたのです。こちらはずっしりと重く、長さも適度にあるので武器として使えそうでした。まさかこんな形で役立つ時がこようとは。ただ、バールなど持ち歩いていて職質でもされたら、弁解のしようもありません。完全に泥棒だと疑われてしまうでしょう。一番は何か刃物の類いでもあれば良いのですが、料理というものをまったくやらない人間なので、包丁も、果物ナイフすらもありませんでした。まあそれこそ刃物を持ち歩いている方が職質で一発アウトでしょうが。

 しかし、職質がどうこうなどと考えていては埒が明きません。むしろ、何も持たずに家を出る方が危険でしょう。なにせ相手は得体の知れない生き物です。下手をしたら次は殺されてしまうかもしれません。相手が人間だった場合でも、首に麻酔薬を打ち込んでくるような奴です。どちらにしても丸腰はあり得ないでしょう。考え過ぎかもしれませんが、今も監視されている可能性すらあります。
 怪しまれぬよう、できるだけカジュアルな服を選び、買い物用のトートバッグに携帯とバールを入れ、最後にアルバイト先のおばちゃんに貰った飴玉ミルキーをひとつ口に放り込んで家を出ました。よく晴れていて清々しく、とても気持ちの良い日です。いつぶりかに心がすっきりとしていました。


サポートした翌日に憧れのあの人からLINEが!等、喜びの声が続々と寄せられています!貴方もサポートで幸せになろう!