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マヌスクルス 第三話 訪問者

 奇妙ではありますが、今回の出来事で、長く失われていた生命力が回復し、生来の好奇心が戻ってきたような気がします。これまでもう何年もの間、休日になろうが何処へ出かけるでもなく、一日中家の中に居て、唯一の趣味だった映画を見たり、テレビを見たりしていました。その後、会社を首になり、母親も亡くなったりと、短期間で次々災難が降りかかってきてからは完全に気力が尽き、週四程度のアルバイトすらやっとで、もはや休日など、ただ寝て過ごすだけになっていました。寝ている間は生きているのを忘れられるからでしょう。

 リストカットをする人は、手首を切り、血が流れるのを見て、生の実感を得ていると聞いたことがあります。私自身はリストカットなどしませんが、気持ちは理解できます。常に安全な環境にいて、自身が生きている事実すら忘れてしまえる現代人は、幸福な反面、生の価値を喪失した結果に精神を病んでしまうのかもしれません。今の私は、得体の知れない生き物に命を脅かされ、未知の恐怖に慄いています。しかし、そのおかげで原初的な生存本能を呼び起こされ、生の実感と、その価値を思い出すことができたのでしょう。私はおそらく、人生で一番興奮していました。

 自宅を後にすると、オカルトサイトを巡回した影響で、UFOを探して空を見上げながら歩いて行きました。空は宇宙と繋がる天窓です。いつ遊星よりの物体がやってきてもおかしくはありません。でも『エイリアン』に出てくるような怪物だけは勘弁です。
 南口の方面へ抜ける踏切を渡り、駅前のロータリーに着くと、夜とはうってかわって……とまではいきませんが、それなりの人出がありました。平日なので、昼食を食べた帰りのサラリーマンや、買い物に出ている主婦などが主だっているように見えます。そのまま線路沿いの道を歩いて行くと、昼は普通に人通りがあり、夜は飲み屋として営業しているところも、日中は定食屋として営業していたりして、店内から漏れ出てくる音にも人の気配を感じました。

 しばらく行くと、「旅人鳥」へ向かう路地が見えてきました。ここを過ぎて更にしばらく進むと、例の路地です。胸がドキドキとして、手に汗が滲んできました。出がけに舐め始めた飴玉も、いつの間にか溶けて無くなり、口の中が緊張で乾いているのが分かります。
 ついに例の路地前へ着くと、一旦立ち止まってトートバッグの中に入れたバールを確認しました。そしていざ路地へ入ろうとした時です。
「おっと!」と、急に人が出てきて大声を上げ、出会い頭にぶつかりかけました。驚いて咄嗟には声が出せずに会釈だけして通り過ぎ、振り返って見ると、私など気にも留めない様子で、晴れているのにレインコートを着たおじさんが、丸めた新聞で太腿を三本締めのリズムで叩きながら、急ぎ足で駅の方へ向かっています。
 ……やれやれと溜息をつきました。思い起こしてみれば、例の日も新聞配達のおじさんが通りかかったので、こんな裏道でも知っている人には使われているのでしょう。逆に人通りがあったおかげで、幾分は気楽になれました。

 気を取り直してふと入り口脇の壁を見ると、【私道につき通り抜け禁止】なるプレートが貼ってあります。こんなものの存在には今初めて気付きましたが、ストリートビューで路地を見られなかった理由が何となく分かりました。土地の所有者からクレームでもあったのでしょう。とすると、さっき出て来たおじさんが土地の所有者なのでしょうか? 人は見かけによらないとは言いますが、どう見ても地主のようには見えませんでした。おそらくは単純に知らないで通っていたのか、知っていても知らぬフリをしていたのでしょう。

 入り口にコーンを立てている訳でもなく、プレートもあまり目立たない感じで貼られています。監視カメラなども付いていないようですし、ここは私も知らないフリをして入ってしまいましょう。新聞配達のおじさんもバイクで入り込んでいましたし、一応プレートを出してあるだけで、有名無実化しているのではないでしょうか。もし誰かに見つかって怒られたら、謝れば何とかなります。今更ここで引き返す手はありません。

 ——都合よく解釈して路地に入ると、昼間でも雑居ビルの陰になっていて薄暗く感じ、何か、負のエネルギーが吹き溜まっているような息苦しさがあります。ただ夜とは違い、入り口のところから既に私の倒れていた角まで見えており、ずっと距離感が近く感じました。道幅も思ったより広いです。しかし、何があるか分かりません。突然の襲撃を警戒し、背後にも十分注意しながら慎重に進んで行きました。

 無事に角まで来ると、この前よりも注意深く現場を観察することにしました。あの時は頭痛が酷く、意識も朦朧としていましたが、今日は万全です。きっと気付かずにいた、何かが見つかるはず。まずは、あの生き物が居た、道路左側の角に立っている電柱の裏を、再度調べてみましょう。
 電柱の根本に屈み込んで、あの生き物が居た裏側をよく調べました。——しかし、何の痕跡も見当たりません。ここが最も何かありそうな場所だったのでガッカリしました。やれやれと立ち上がりかけたところで、軽く立ち眩みがしたので電柱に掴まるようにして立ち上がり、しばらく呆然と突き当たりにそびえるビルの壁を眺めていました。

 剥き出しになった配管の行方を無意識に目で辿っていると、パイプが地面に潜り込む付け根のところに、何か小さなものが落ちているのに気付きました。近付いてよく見ると、どうやら指輪のようです。「これは!」と興奮して、直ぐに拾い上げようとしましたが、——こういう時は自分の指紋を付けない方が良いかも——と、まず気持ちを落ち着け、スーパーの仕事を始めてから、常にズボンのポケットに入れていた軍手を取り出して嵌め、まるで刑事ドラマの鑑識になった気分で、慎重に指輪を拾い上げました。

 金色の指輪で、大きさの割に重く感じるところから純金? でしょうか。一箇所切れて少し隙間が空いています。シンプルで何の装飾もなく、おそらくは結婚指輪のようです。指輪の内側に何か文字が刻印されているようですが、ただの傷のようにも見えます。最近どうも老眼が入ってきたらしく、文字だか傷だかはっきりとは判別できませんでした。老いが日増しに加速しているようで辛いです。

 この指輪は、あの日には既に落ちていたのか、それとも、その後に落とされたものなのか。あれから二日ほどしか経っておりませんし、あの時の体調や精神状態を考えれば、既に落ちてはいたものの、見逃していた可能性があります。そして何より、この指輪とあの生き物との関係ですが、昼間でもほとんど人通りがない寂れた路地裏に、指輪など落ちているのは不自然であるように思います。あの日、私の首に麻酔薬を打ち込んだ何者かが落として行ったのでしょうか? 期待もありますが、何かしらあの生き物に関係したもの、と思わずにはいられませんでした。

 とりあえず指輪を飴玉の包み紙にくるんでポケットに仕舞い、他にも何かないかと、這いつくばるようにして周辺の地面を調べましたが、もう何も落ちてはいないようです。立ち上がって、念のためビルの壁面に最近付いた新しい傷でもないかと探しました。実際のところ、素人の私がそんなものを見つけたところで、何かそこから分かる訳もないのですが、指輪を発見し、恥ずかしながら、すっかり探偵気分になって浮かれていたのです。

 さして考えもせずに、電柱によじ登ろうと試みるまでして周辺をくまなく調べましたが、流石にこれ以上はこの辺りに留まっていても無駄なようです。そこで、もう一度この前と同じルートを辿る事にし、まずは右手の路地を進んで行きました。方角的には駅の方面へ戻って行く形になります。こちらの道も私道であるのか、角を左に曲がって踏切へ向かう道路に至るまでが私道であるのか、何の注意書きも無いのでよく分かりませんが、この路地を歩いていると妙な独特の違和感があります。さりげなく監視カメラの存在をチェックしながら行きましたが、幸いその心配は無さそうです。途中で携帯を取り出し、道の真ん中に立ち止まると、左右の建物がしっかり収まるようにして前後の写真を撮りました。

 電柱のある角から、体感で百メートル弱ほどの距離を歩いて突き当たりに着くと、左側の角に立つ建物の壁に、ぴったり埋め込まれるような格好で自販機が設置されていました。前に来た時は意識が朦朧としていてあまり気に留めませんでしたが、こんなところに設置してある自販機を一体誰が利用しているのでしょうか? 採算が取れているのか疑問です。

 角に立って左右を見回すと、左手の少し先にある飲み屋の裏口が気になりました。突然そこからヒョイと誰かが顔を覗かせそうな気がします。そこで写真だけ撮って早く切り上げようと、まずは右手の狭い道を、先の看板まで見通すようにして一枚撮りました。道の先にある看板には「焼き鳥」と書いてあります。次に、左手の道を少し入って、飲み屋の裏口周辺を何枚か撮りました。飲み屋は二階建てのビルで、路地裏の中でこのビルだけが不自然に古く、二階部分には大きな横長の広告看板が二枚取り付けてあります。看板各々の掲載面は四分割されていて、不動産屋やら飲食店やら雑多に掲載されていますが、文字は半分消えかかっており、電話番号を見ても市外局番が現在より一桁多いため、かなり前に設置されたものでしょう。看板の上の方に窓枠が見え、どうやら二階の窓は看板で覆われているようでした。

 掲載料を取るために飲み屋が設置したのでしょうが、それを考えれば少なくともこの看板が設置された当時には、掲載料が取れる程度には道から看板が見えていたはず。つまり、飲み屋を残してこの辺りの区画に大幅な変更が有ったのではないか………。そんな事を考えながら、来た道を足早に引き返して、倒れていた現場も真っ直ぐ通り過ぎ、北口方面に抜ける踏切へと向かう二車線の道路まで出ました。昼間だけに、かなりの交通量があります。新聞配達のおじさんは、おそらくここから路地に入って来たと思われますが、こちらの入り口にも、脇の壁に【私道につき通り抜け禁止】のプレートは貼られています。

 プレートの前に立って、しばし考えてみました。一旦家に引き返し、もう一度夜になって来れば、またあの生き物に出会えるのではないかと。
 あの生き物は夜行性であり、昼間はどこかに隠れているのかも知れません。この私道である路地周辺にだけ、しかも夜しか出没していないのであれば、目撃情報が無いのも頷けます。こんな昼間ですらレインコートのおじさんに出会ったきりで、指輪を探している間は誰も通りかかりませんでした。
 そして、あの生き物に犬や猫のような習性があるとするなら、電柱付近に居たのは、おしっこをかけたり、臭いを擦り付けたりする、所謂マーキング行為だったのかも知れません。それならば、またあの電柱で同様の行動をとる可能性があります。
 ——やはりここは一旦引き上げ、夜に再訪してみましょう。

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