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自分の不幸は蜜の味


 父親のことがあんまり好きじゃない。どうして、とかどんなところが、と聞かれると非常に困るのだけれど、なんだか合わないのだ。彼の何気ない発言に、結構傷ついたり腹が立ったりしている私と、私の発言に対してよく分からないところで怒り出す父。基本、私は自分の思い通りになるものだと思っている父と、好きにさせてほしい私。天秤が上手く釣り合わないような、そんな感じ。
 でも、あんまり好きじゃない故に、普段父を意識する機会は多い。パパが好きだからパパのことばっかり考えているスタンダードなファザコンではなく、私の場合は嫌いだから言いなりにならないようにするあまり、結局気にしてしまう逆ファザコンだと、最近気づいた。ある意味、普通のファザコンよりこっちの方が拗れているぶん、厄介かもしれない。

 まぁとにかく、父と話して気分よく終われたことがあんまりない。チクッ、の日もあれば、グサッ、の日もあって傷の浅さはさまざまだけれど、いつもモヤっとするのだ。それでいつも、傷ついた日(特にグサッの日)は「私って不幸やなー。」と思う。だって不幸やん。毎日顔を合わせる人にいちいち傷つかなくてはいけないのも、向こうがそれを無意識でやっていることも、そんな私と比べて友達は両親と上手くやれていることも、ぜんぶ、全部。
 それで、それらについて小一時間ほどぐるぐる悩む。えっ、長すぎ?でも、ぐるぐるしてたらそうなっちゃうの。ゴールがないからかな。それに、ぐるぐる悩むのって案外楽しいのだ。ぼんやり感じていたいやな気分が、だんだんこころに染み込んで、たしかな不快感になっていく。そして、仕上げに「あぁ、私って何て不幸なんやろう。」と呟けば、悲しみのどん底の、できあがりだ。

 私は、不幸は劇薬だと思っている。何なら、しあわせよりもよっぽど。いったん不幸の渦に巻き込まれる快感を知ってしまうと、もうやめられない。悲劇に浸っていたい病から、ぬけだせない。
 不幸はあまい、甘い蜜のような味がする。辛い気持ちを抱えていることは確かにしんどい筈なのに、私は悲しみでいっぱいの私が好きだ。別にしあわせになんかならなくっていいのかもしれない、おそろしい。ネガティブな感情は私のメンタルを着実に弱らせていて、確かにその感覚はあるのに、わざと悲しみに浸ることを止められない。不幸には、まるで麻薬のような中毒性があるのだ。

 もうやめたい。私はいい加減、しあわせになりたいんだ。何度そう思ったことだろう。でも結局、ぐるぐるする羽目になる。なんでこうなっちゃうの。

 あーあ、わたし不幸だなぁ。

 

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