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生活のSTARS

1.生活のSTARS
天の川と自分の爪先の原子核は同じくらいに遠いように感じる。
ある段階から距離に無自覚になる溝のようなものが存在するのか。距離という単位はグラデーションのような気がしてて実はそうではないのかもしれない。私たちはどこかでいくつかの区切りを打つのだろう。分かりたい、分かりたくない、という感情がステップAとステップBの間に明確な段差を生む。それを私たちはあらゆることに適用して認識している。全ての人の死を等しく悲しむことはできない。それは自分という設定に必要か否かで区分され、認可されたもののみが感情との接近を許される。そこではじめて私たちは涙を流したりする。そんな大袈裟なことじゃなくても多くのことがそんなふうに秤にかけられて、溢れ落ちたり受け止められたりしているんじゃないか。秤の基準は時代によって変わるが、多くのシステムはとりあえず受け皿自体を大きくすることのみに注力し、なぜ秤が存在しているのかはもう検討しない。溢れ落ちるのは秤があるからだとみんな気がついているけど、もうそれがなかった頃には戻れないと理解しているからだ。誰かを救うために生まれたシステムの積載量を人口がはるかに超えた時、大きくなりすぎた船は乗客ごと海の底へ沈んでいく。


2.予行演習
悪夢はストレスの顕現であると同時に悲しみや動揺の予行演習でもあるという話を聞いて、へえと思った。救いのない音楽や映画も実はそれが「ある最悪のケース」の提示だとしたら、胸くそ悪さの先にも存在する意義があると思える。宮崎駿の「君たちはどう生きるか」見て、率直に悪夢のようだと思った。現実の軋轢が非現実と交差して極めて象徴的な部分と、そうであるからとしか言いようのないゆるがなさ(それゆえの無意味)が混在して気持ち悪く、そしてあまりの美しさに圧倒的に気持ちいいのである。それにしてもすごいタイトルだと思った。これまでのキャリアを全て包括して再提示するという、本当に絶対誰にも真似できないことをやっている。恐ろしい。


3.四国
秋に先輩たちと四国に行くことが決まった。かつおを食ったり酒を飲んだりする小旅行になる予定。いつも仙台への帰省が自分の「年間旅行枠」を埋める手段だったのだけど、今年は東京へ行ったりもあって帰省はもっと先になりそうだ。移動は疲れるがすればするほど良いものだと思っている。いかに体と心を移動させるかが日々の命題だと感じる。良い芸術は心を遥か遠くへ移動させる。そんなものを作りたいし、そうであるならまず自分が移動しなきゃだ、と思う。


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