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「そんなこと」こそ伝えたい。

氏名:________

条件反射で名前を書き入れてしまう、まほうのアンダーライン。
ここへ自分の名前を書くたびに、思い出す出来事がある。

小学5年生の冬、算数のテストを返却されたときのこと。

その日、私は最初に名前を呼ばれた。

出席番号が1番だったので、どの教科でも最初に返却される頻度は高い。
違和感も覚えずに席を立ち、答案用紙を受け取るべく両手を伸ばした。

すると、なぜか先生も席から立ち上がった。
え? と戸惑いながら見上げると、先生は答案用紙を私ではなくクラスメイトに見せた。


「素晴らしい答案なんだ。理由、わかるか?」


先生は教室中をぐるりと見渡し、クラスメイトに問いかけた。クラスメイトの動きが止まり、一斉に視線が答案用紙に注がれた。

私も斜め下から答案用紙をのぞき込んだ。点数は100点だった。なるほど、他に100点がいなかったから褒めてくれたのかもしれない。他の人はそんなに低い点数だったのかな。


「100点だからです」


クラスで一番頭が良くて運動神経もいい、村田さんが答えた。


「そうだな、でも違う」


先生は首を横に振り、もう一度教室を見渡した。
次に発言する人はいなかった。少し待ってから、先生は口を開いた。


「名前の欄を見てほしい。めいっぱいの大きさで書いてあるだろ? これがいいんだ」


思いもしなかった答えに、クラスメイトはきょとんとした表情をしていた。
たぶん、私も同じ表情をしていたと思う。

わかってないな、という顔をしながら、先生は続けて言う。


「名前を大きく書くと、誠意を示すことができるんだ」

「私はこの答案用紙の名前を見ると、胸を張って大きな声で『採点してください』と頼まれているように感じる。だから気持ちよく採点ができる」

「君らも大きな声であいさつをされたら気持ちがいいだろ? それと同じことだ」


驚いた。え、そんなことで? とも思った。

しかし、文字を大きく書く人はクラスにあまりいなかったのも事実だった。
当時のクラスでは、なぜか小さく文字を書くのが流行っていた。原稿用紙を埋めるときも、マスの4分の1くらいの字の大きさで書いているのを知っていた。

そんな中、私は原稿用紙もマスいっぱいの大きさで文字を書いていた。理由もよくわからないものに流されるのが、あまり好きではなかったからだ。しかし、それが褒められるとは思ってもみなかった。

先生は「字が小さいと自信がなさそうに感じる」との説明を付けたし、「老眼が入ってきてるから、そもそも小さい文字読むのはしんどいんだぞ?」と少しふざけた感じで言って、答案用紙の返却を開始した。

ざわざわ、とクラスが一気に動きだした。
私は思わぬ角度から褒められた衝撃が抜けなかった。

この日、評価にもイレギュラーがあることを知った。100点を取ったことを褒められたときよりもずっとうれしかった。誰しもが褒めてくれるような部分ではない、別の良さをわざわざ見つけてくれた。その特別感が誇らしかった。

一般的に評価されることだけが良いとは限らない。普段は注目されないことに、突然スポットが当たることもある。短所に見えるところでさえ、人によっては長所に見えることもある。そういったことも後に学んだ。

周囲が特に気を留めてないことを良いと褒めるのは、勇気のいることだ。少し感性がずれてるのかもしれない、と思ってしまうこともある。

しかし、本人すら気づいていない良さを見過ごすことの方が惜しい。自分が伝えなかったら一生誰も気づかないかもしれないと思うと「伝えるのは自分の役割だ」と使命感すら覚える。

些細なことであればあるほど、他人からことばを伝えられる機会は少ないからだ。貴重な一回を、なかったことにはできない。
それに、私は「そんなことで?」と思ったあの日のことをしっかり覚えている。字の大きさを褒められたことはあとにもさきにもないから、より鮮明に覚えているのだろう。

私も、誰かのちいさな良さに気づける自分でありたい。
ていねいに「よかったよ」と伝え続けていきたい。



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