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ナガ族の太鼓に思うこと

ミャンマーとインドにまたがる山岳地帯に、Naga(ナガ)という少数民族が暮らしていて、数年に1度、10mもの長さの太鼓をつくるそうだ。


太鼓をつくろう、と決めると、村人は集まって占いをする。どの方角のどんな木を切るのが良いか、吉兆を占うのだ。

占いの結果が出ると、男たちは森に入り、びっくりするほど大きな木を切り倒す。

それから10日ほど、男たちは斧や鑿(のみ)をふるい続ける。少しずつ大木の幹を掘り進め、空洞にしていくのだ。

中が空洞にならない限り、重くて運べないので、数十人の男たちは森の中に寝泊まりして太鼓づくりに励む。

(木の虫食いや傷が見つかれば、不吉な兆候なので太鼓づくりは中止。別の木を探さなければならないらしい)


太鼓が完成すると、森から村へ太鼓を運び出す。空洞とは言え、10mの大木だ。簡単には動かない。

男たちは周囲の蔦や枝を使って縄をつくり、太鼓にくくりつけ、村人が総出で縄を引っ張って森から運び出す。

数kmの道なき道を進むのに、2日かかる。

鳥のような猿のような叫び声をかけ合いながら、力を合わせ、曳いていく。(モアイ像を運ぶイースター島民を彷彿とさせる)


村に太鼓が到着すると、お祝いの儀式が始まる。

男たちは民族衣装を身につけ、火を囲んで円になり、奇妙なステップでぐるぐると回りながら、夜が更けて朝が来ても、歌い続ける。



・・・というドキュメンタリー映像を、先週観た。

電気も水道もない山岳地帯の村に泊まりこんでドキュメンタリー映像を撮った人がいて、それをヤンゴンで無料公開してくれたのだった。

(本当に素敵な映像だった。感謝!)



太鼓をつくる男たちを観ながら、いったい何のために、と思う。

いや、太鼓の用途は明確なのだ。打楽器として、例えば村の祭祀や、火事などの危険時、死者の弔いなどに使われるらしい。

でもそれだけなら、10mもの長さは必要ないし、どこのどんな木でもいい。

(この木が少しでも細くて短かったら、あるいはもう少し村の近くに生えている木を選んでいたら、どれだけの労力が節約できただろう)


しかし太鼓をつくる村の男たちの姿には、「いったい何のために」という当たり前の疑問を封じるような、静かな熱量があった。

太鼓はつくるものと決まっているのだ。そして村人たちは、ただただ、つくる。

つくるためにつくる。


それでも、私は何度も「何のために?」と問い、いや、そうやってすぐに物事に目的や意味を見出そうとするのは、私の悪い癖なのかもしれないと思い直したりした。


冷静に分析すれば、こういう困難な共同作業を行うことでコミュニティの結束が高まるのだとか、先祖代々続いてきた伝統を守ることでアイデンティティが云々…とか、色々言えることはあると思う。

だけど、そんなことを考えるのがバカみたいな気持ちになるのだ。


思考停止。



‥‥だけど、本当にバカみたいなことって何だろう。

扱いきれないほど大きな太鼓をつくること?

何十人もの男たちが農作業を中断して、太鼓のために森にこもること?

それとも、この太鼓づくりになんらかの目的や効果を見出そうとすること?

そんな疑問を、こうやってインターネットに書き散らすこと?


逆に言えば、価値あることとは何なのか。

そもそも、価値あるものが存在する、ということ自体が幻想なのではないだろうか。

気がつくとそんな風に、また思考している。



そのドキュメンタリー上映会場には、驚いたことに、ナガ族の村長がきていた。

鳥の羽や熊の毛でできた帽子をかぶり、民族衣装を身につけた、にこにこ笑顔の村長。


ヤンゴンのオシャレな会場で、大きなスクリーンの前に座り、村長はぎこちなくマイクを握って挨拶する。

それは確かに、映像の中にいたその人なのだけれど、太鼓をつくったり、火の回りで雄叫びをあげたりしていた人とは、まったく違うように見えた。


村長への質問コーナーで「こうして都会に出てみて、自分の村の方がいい、と思うところは?」と聞かれると、彼は「全部、都会の方がいいよ」と笑った。

それを少し残念に思ったのは、きっと私だけではなかったと思う。


私は、太鼓をつくるナガの原始的な暮らしを、羨ましいと思った。

つくるためにつくり、生きるために生きる、シンプルで力強い暮らし。


私は彼らよりたくさんのものを持っている。家には水も電気もネットもある。お金だって、知識だってきっと私の方が持っている。

でも、私にはナガの太鼓がない。

何も考えず、ただそのためだけに自分を捧げる、というものがない。


賢くなったのか、愚かになったのか、わからないな、と思う。



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