目の見えない人と一緒に見る世界
数年前、白杖をもった人と歩いたことがある。ほんの数十秒の、やりきれない思い出だ。
その夜、私は駅のベンチで終電を待っていた。すると突然、静寂を破って、カランカランッと空き缶の転がる金属音が響いた。
スマホから顔をあげると、スーツ姿の男性が白杖を動かしながら、こちらに向かってホームを歩いてくるところだった。空き缶は、彼の白杖に当たって飛ばされたものらしかった。
あぁ、見えないのか。
とっさに立ち上がり、その人に声をかける。「あの、改札まで一緒にいきましょうか」。
彼は「助かります、ありがとうございます」と柔らかい口調で言い、「失礼します」とそっと私の腕につかまった。
歩き出して、すぐにわかった。
この人には、私の腕はいらない。
たとえ見えなくても、彼の足どりは迷いなく改札に向かっている。
私の腕に添えられている彼の手の軽さが、そのことを裏づけていた。
自動改札機の前で、彼は私の腕から手を離し「助かりました。ありがとうございました」と頭を下げた。そしてまっすぐ改札を抜けて行った。
彼はきっと私をがっかりさせないように、私の手を借りてくれたのだ。
彼の後ろ姿を見送りながら、私は強烈なやるせなさに襲われた。
それは「見える人=私」と「見えない人=彼」が、それぞれに期待される役割を演じているような、しらじらしさ。
そして、私が「手助けしましょう」と名乗り出たことによって、彼を「助けが必要な人」に貶めてしまったという、後味の悪さ。
さらに言えば、彼が、本当は必要なかった私の手助けを「助かります」と受け入れた(=助けが必要な人としてふるまった)ことで、「助ける人」と「助けられる人」の予定調和的な物語を、2人で完成させてしまったかのような居たたまれなさ。
「一人で歩けるから大丈夫です」と言ってくれたらよかったのに。そう思いつつも、私の申し出を拒まなかったその人の気持ちも、よくわかった。
だからこそこの出来事は、本当にどうしようもなかった。
このことを思い出したのは、先日こんな本を読んだからだ。
あの白杖の人はどんな世界を生きていたのだろう。
私のような「見える人」は、彼のような「見えない人」とどう関わっていけばいいのだろう。
この本には色々なヒントが書かれていた。
3本脚のイス
視覚がない、というのはどういう状態なのだろう。そう思って読み始めると、いきなりバッサリとこう書かれていた。
「見えない」という状態は、からだの機能から視覚を引き算したものではない。
「見る」という機能が人の標準装備だと考えると、「見えない」というのは、機能の「欠如」になってしまう。
だけど、見えない人は「何かが足りない世界」にいるわけではない。ただ「視覚がない状態の世界」という、その人たちの標準世界(?)を生きているのだ。
本では、わかりやすい例があげられていた。
四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。
たしかに、もともと3本脚のイスは「脚が1本欠けている」わけではない。3本脚で完結しているのだ。
でも私たち「見える人」は、視覚障害者にたいして「本来あるはずのものが欠けている」と捉えてしまう。そして「見える人」なりの責任感をもって、懸命に補おうとしてしまう。
そこにあるのは、1対1の対等な関係ではなく、健常者が障害者を助けるという「福祉的な関係」だ。
それはまさに、私が白杖のサラリーマンと改札まで歩いたときに感じた違和感そのものだった。
「見える人が見えない人に腕を貸す」という行為によって、そこに突然、なんだか覆しようのない福祉的な関係性が生じてしまったのだ。
見えない人に見えている世界
3本椅子の人に見える世界はどんなものなのだろう。
視覚の「欠如」ではないにせよ、それがあるのとないのとでは、大きな違いがあるはずだ。「見えない」ことによって、できないことだってたくさんあるだろう。
・・・と思っていた私は、あっさりと認識をくつがえされた。
見えない人は、思いのほか多くのことを、目以外の器官をつかってやっているらしいのだ。
考えてみれば、確かに「見る」というのは「目的」ではなく「手段」だ。
例えば私はこの本を「目」を使って読んだけれど、「指先」を使って点字で読んだり、「耳」を使って聴覚で読んだりすることもできる。
(それは「読む」と言えるのか?と思う人もいるだろうが、実際に点字を触っている人の脳では「読む」機能の領域が活性化しているという)
さらに、見える人が体験できない世界を、見えない人が体験していることもあるらしい。
例えば私たちは「満月」と言われると、白とか黄色の「円」を思い描く。一方、見えない人が思い描く満月は3Dの「球体」なのだという。
なぜなら、見えない人には「視点」というものが存在しないから。それに、見える人たちが絵本や写真で見ているような平面的なイメージの刷り込みも受けていない。
よって見えない人は、最初から二次元をとびこえて「死角なく物を認識している」。こういう物の見方ができることは、欠如というよりむしろ能力だろう。(うらやましい)
「助ける」「助けられる」関係から抜けだすために
見えない人の世界や、見える人との違いは、少しずつわかってきた。
だけど、私の疑問はまだ解けない。
それは、見える人が圧倒的に多いこの社会で生きていくには、見えない人はやはり手助けが必要で、そうである以上「助ける− 助けてもらう」という「福祉的な関係」からは逃れられないのでは? ということ。
しかし本には、そこから抜け出すヒントも示されていた。
それは、もっと見えない人の手を借りようという提案だ。
この本では例として「ソーシャル・ビュー」というワークショップがとりあげられていた。
これは、目の見えない人と美術館で絵を観る、という奇想天外な試みだ。
見えない人を含む数人で絵の前に行き、見える人たちが見えない人に、絵について説明する。
すると、何が起きるか。
見える人同士だったら「この青、なんかグッとくるよね」で許されたとしても、それでは見えない人には通じません。がんばって、自分なりの解釈を、言語化してみる。「空というよりは海の青で……どんより曇った日の海……」。
多くの人が最初はとまどいます。(中略)でも、その抵抗感を越えて言葉にしてみると、自分の見方を明確にできるし、他人の見方で見る面白さも開けてくる。無言の鑑賞とは異なる、より創造的な鑑賞体験の可能性があらわれます。
そこに見えない人がいるからこそ、あぁでもないこうでもない、とみんなで言葉を絞り出す。それは視覚障害者の認識をキャンバスとして、みんなで一枚の絵を描くようなものかもしれない。
さらに筆者はこう語る。
私自身、見えない人といると自分の性格が少し変わるのを感じます。一言で言うとおしゃべりになり、なんでも言葉にするので不思議とリラックスしてきます。(中略)日常的な人間関係に比べると、「壁」がかえって低くなったような感じがします。
なるほど!
見える人は、そういう形で見えない人に「助けられる」可能性があるんだ。
最近では、障害者を「極端なユーザー」としてものづくりのプロセスに巻き込むデザインもあるそうだ。確かに、見える人には考えつかない、月が球体でイメージされるような発想が、新しいデザインをうむ可能性は大いにある。
(今後、そうした事例がもっと多く提案されていってほしい)
見える人だって見えない人にもっと助けてもらっていいのだ。
私は正直、社会において自分が障害者に助けられるパターンは想定していなかった。
障害者との関係において、私は常に「助ける人」であり、障害者は「助けられる人」だと思っていた。そしてそう思っていることにも気づいていなかった。
「私が障害者から助けられる側になることがある」という、「困った時はお互い様」的な認識。そして、もっとお互いに、お互いの個性を利用し合う関係性。私に欠けていたものは、この感覚だ。
こういうものを築いていけるようになれば、いちいち互いの関係性の中に不自然さを感じてクヨクヨすることもなくなっていくかもしれない。
数年前に白杖の人との間に現れた、強烈なやるせなさが解決されたわけではないけれど、どうしようもなかったものに、少し風穴が開いたような気がした。
ということで、長くなりましたが、2020年秋の、読書感想文。
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