見出し画像

物見遊山でもいいから来てほしい

2011年3月11日、私は札幌で仕事をしていました。
突然の大きな揺れに「え、何々、地震??」と同僚たちとおろおろしたことを思い出します。
事務室のテレビをつけると、津波の映像が流れていました。
徐々に明らかになる被災状況に、いったいどうなってしまったんだろうと怖くなりました。

研修で仲良くなった友人が盛岡にいて、仲間たちは心配しそれぞれがメールをしたものの返信がありません。
私は仕事でほぼ徹夜だったので連絡はせずにいましたが、
翌日仲間の一人から、「仲良かったあなたから聞いてみてほしい」と連絡があり、心配になりメールしたところ、
少しして友人から返信がありました。
「自分は大丈夫、でも携帯の電池が切れそうだから、あなたからみんなに無事って伝えておいて」と。

落ち着いた時に友人から、
必要物品を買うために、ホームセンターの長い列に並んでいたら、みんなからメールがバンバン入ってきた、
妹家族と連絡が取れず不安だったので、申し訳ないけどみんなのメールにはかまってられなかった、
何より電池切れになりそうで困った、
と聞きました。

よく言われていることですが、
災害時には、家族以外の方への連絡は控えなければと身をもって知りました。

相方(夫)とは、何かできることはないだろうか、現地にも行ってみたいけど迷惑かなと話していましたが、特に行動を起こすまでには至っていませんでした。

そんな時に盛岡の友人から、
可能であれば一度来てほしい、物見遊山でもいいから自分の目で見てほしいと言われました。
ボランティアバスが盛岡市から出ていることを教えてもらい、少しでも役に立つのならと相方(夫)と二人で行くことに。
3か月後の6月11日でした。

盛岡の友人の自宅や家族は無事だったけれど、自分の目できちんと地域を見ておきたいという気持ちから友人も一緒にボランティアバスに乗り込みました。
私たちに割り当てられたのは、陸前高田市にある水産加工場の後片付け。
工場の中は腐敗した魚で溢れていました。
地震で停電したため、保冷庫の中の魚が全てダメになってしまったのです。
それをビニール袋に詰め、そのビニール袋をドラム缶に詰めるという作業でした。
その時のにおいは、今も鮮明に覚えています。

水産加工場に行く途中、背丈よりも相当高い木の枝にいろいろなものが引っかかっているのを見て、津波があの高さまで来たんだと、背筋が凍りつくような気持ちになりました。
街はほとんど片付いてなくて、何もなくなってしまって、この先いったいどのくらいかかるんだろうと気が遠くなる思いでした。

テレビで見ていて知ったつもりになっていたけれど、実際にこの目で見た時の衝撃、感じる音やにおい、それは現地に行かなければ到底わからないことでした。
行ってみて初めて、自分事としてとらえることができたと思っています。
地震対策も真面目に考えるようになり、胆振東部地震の時には寝室に置いていた本棚を別部屋に移していたおかげで下敷きになることを逃れました。
まだまだ不十分ですが。

半年後の9月には仲間たち10名ほどが盛岡に集い、一緒に大槌町を訪れました。
3年後には同窓会を盛岡で開催し、バスを借り上げて宮古市田老を訪れ被災地ガイドの方からお話を伺いました。
時が立つにつれて町は徐々に新しくなっていましたが、まだまだ震災の爪痕があちこちに残っていました。

そのあとはもう10年近く訪れてはいません。
行きたいな、行かなきゃねと思ってはいるのですが。

日本各地で大きな災害が起きています。
そのすべてに足を運ぶことは難しいけれど、東日本の被災地には定期的に行かなければ。
忘れていない、忘れちゃいけないと自分に言い聞かせるために。
物見遊山でもいいから現地に来てほしい、この言葉は私の気持ちを軽くしくれました。
今どんなふうになっているのかを、ちゃんと自分の目で見てこようと思います。



東日本大震災から13年。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?