ヒットを出すための努力をする

今まで、努力というものをしたことがない。
そんなことを言うと、側から見れば努力に該当する行為をしていると指摘される。
例えば筋トレとか健康的な自炊とか賞に応募するための脚本の執筆などを、仕事をしながらこなすという行為は努力として受け取られるが、それは自分にとって「習慣化可能な行為」である。つまり努める必要がないから努力ではないと思っている。

しかし最近は編集者としても脚本家としても「ヒット作を作るための貢献をしたい」というモチベーションから「努力せねば!!」という思いが沸々としてきている。

では「ヒット作を作るための貢献」をするための努力とは何か?を考えると、
「もうそれはインプットとアウトプットしかないのではないか?」なんて結論に行き着く。ベタでごめん。

昔新卒で就活をしている時にどこかの会社の説明会で「クリエイターの基礎力はインプットとアウトプットの質と量」みたいなことを言われたが、その通りだと思う。

だがまだ抽象的だ。
言語化が足りない。

量はわかる。おそらくこれは習慣化で解決できる。
しかし「質」。
「良質なインプット」と「良質なアウトプット」とは何か?
今回は、この二つの観点を深掘り、「適切な努力」を見極めるための思考をしたい。


<良質なインプットとは>
自分が思うに、良質なインプットとは「自分の領域に転用できるかどうか?」だ。
つまりは見たものや感じたものを「自分の仕事に活かせるほどに血肉にすること」だと思う。
大半の人間はこれを無意識で行なっている。
例えば「好きな作品にインスパイアされてこの作品を作った」などの言葉がこの行為の証左になっている。
インスパイアを受けるということはそれは良質なインプットではないかと思う。自分がいいと思ったものに触れて、影響を受けるというのは漠然と作品を消費するよりは質が高い。
問題はその無意識の「インスパイア」を有意識で行えるかどうかなのではないかと思っている。

おそらく無意識のインスパイアは「自分が刺さった作品にのみ発生する現象」である。
それを有意識で行うことができれば「自分が刺さらない作品においても質の高いインプットができる」という再現性が出てくる。
その再現性を高めた視点での作品の鑑賞や人との会話などが「良質なインプット」になるのではないかと今現在は考えている。

では、どうしたら再現性が高まるのか?
それは「常に抽象化する観点を持つ意識」が必要不可欠だと半分確信している。
抽象化はあらゆるものに対して発生する。
例えば、「面白い物語の型」「キャラクターを好きにさせる方法」「興味をひく話し方」など。

しかし、書き連ねて思ったが、これは「感情が動いた時」にのみ適応される法則な気がした。どうすれば「感情すら動かないもの」を良質なインプットにすればいいのだろうか?
かなり高次元なのかもしれないが、「もしこうだったら自分の感情が動いたのに!」を考える必要があるのかもしれない。なぜそうなれば自分の感情が動いたのか?を言葉にすれば、世間と自分とのズレも知れるので一石二鳥だ。
編集者にとっては自分の主観が一番の敵だ。

つまり「良質なインプット」とは、
感情が動くものの場合……「なぜ感情が動いたのか」をあらゆる観点で抽象化する。
感情が動かないものの場合……「こうすれば感情が動いたかも」を想像し、言葉にする。

ということだろうか?絶対もっと細分化できるけど、一旦はこのくらいのざっくりさでいいや。


<良質なアウトプットとは>
これはもう答えが出ている気がする。
簡潔にいうと「インプットで得たものを転用し、言葉にしたり作品を作ること」だと思う。
モンハンでいうと「集めた素材を使って武器を作ること」だと感じる。
おそらくこれは「良質なインプット」とやらを言葉にするだけで「良質なアウトプット」になるのではないかと思った。
思ったが、それでは芸がない。

もっと高みを求めるのであれば、「良質なインプットを駆使して、人の感情を動かすこと」が良質のアウトプットになるのではないか?
それってめちゃくちゃ難しい。
毎回毎回を「良質」にするためにはこのnoteや企画書や脚本で常に真剣勝負しないといけないのだ。ちなみに自分はそんな気持ちで何かを作ったことがないので、この姿勢で何かを作るということは間違いなく「努力」に該当すると思う。
自分の習慣化の外に出ているので。


つまりまとめると、
「良質なインプット」は有意識で物事の抽象化をすること。
「良質なアウトプット」は抽象化したものを転用し、人の感情を動かすこと。
このサイクルを回せれば努力のはずだ。
もっと頑張ろう

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