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ペテルブルクゆかりの作曲家

・ミハイル・グリンカ
・ピョートル・チャイコフスキー
・モデスト・ムソルグスキー
・ドミトリー・ショスタコーヴィッチ
・セルゲイ・プロコフィエフ

 ペテルブルクで学びペテルブルクでその創作活動を展開した作曲家というのは数知れない。ここに挙げた名前はクラシック音楽に通じていない人でもどこかで聞いたことがある名前だろう。しかしこれは一握りでしかない。この他にもサンクト・ペテルブルクにゆかりのある作曲家は無数にいる。

 なぜか。

 今現在の感覚であれば、首都はモスクワなのだし、チャイコフスキー・コンクールのような大規模なコンクールはモスクワ音楽院を中心に行われているし、日本からのピアノの留学先というとまずモスクワというイメージがある。

 歴史を紐解くと、そのイメージは拭払される。

 ロシアには、西洋音楽でいう「古典派」が存在しない。これがまさにペテルブルクで音楽が発達した理由に繋がってくる。長らくロシアにはそもそもロシア正教会で歌われる教会音楽(器楽を伴わない声楽のみ)しか存在しなかった。西側諸国でバロックから古典派が形成されている時期は、ロシアはそもそも国として成立していなかった。ロマノフ王朝ピョートル1世がペテルブルクを建都したのは1703年のことで、都市の建設もさることながら国としての体裁を保つまでにはそれ相当の期間が必要であり、さらに言えば政略結婚によって西側諸国との婚姻関係を築く上で王妃の出身環境を「王宮」に再現することを目的に出身地から音楽家などが召し仕えられた程度で、一部の限られた部分にしか西欧で発達し続けていた音楽は取り入れられなかった。

 サンクト・ペテルブルクのフィルハーモニー協会は1803年に貴族の仲間内で作られたのだが…

 ペテルブルクの王宮に出入りする貴族の間で音楽を愛好する人々が増え、宮廷以外でも音楽を楽しむ場所を作るというのがきっかけでフィルハーモニー協会が作られた。当初は決まった会場は持たず、今ならフィルハーモニー協会といえばオーケストラをイメージするところだが、その名の通り「協会」であって室内楽など出来る範囲の音楽を「宮廷外」で実現することが目的であった。とは言っても、ロシア人がよく好む言い方で「同時代人」というのがあるが、ロシアでフィルハーモニー協会が作られた時代はまさに西側では古典派全盛期。ペテルブルクのフィルハーモニー協会はベートーヴェンにコンタクトし、手紙のやりとりが残っているほど。その成果としてフィルハーモニー協会でベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」は1824年4月7日に世界初演されているのだ。(俗に言うクラシック音楽(ハイドン・モーツァルト・ベートヴェン)の時代は1770年から1830年頃。)

 ここで忘れてはいけないのは、ロシアは西側で古典派が全盛期だったその時代、音楽の消費する一部の貴族はいたが、作曲家を輩出するような音楽生産国ではなかったということ。

 あくまでも、王妃の出身国の慣習に沿って、あるいは外交上「宮廷」の身なりを保つために新しい国が西欧的である必要があったために西洋音楽がその一部として存在しただけ。

 ロシアで最初の音楽教育機関が設立されたのも、時代はもっと後のことで1862年。例えば日本人音楽留学生の人気校である世界最古の音楽教育機関とも言われるウィーンの国立音楽大学などは1803年と設立年はロシアよりもっと前になる。西洋音楽の本拠地であるドイツ、オーストリア、フランスは、音楽教育機関で音楽家を育てる環境の整備以前に教会や宮廷など音楽を生産する土壌があったことを考えると、ロシアであえて教育機関で音楽家を育成しようという結晶が1862年であることは、かなりの遅れをとったことは明白な事実である。

 なぜなら1862年以前にロシアは音楽の生産国ではなかったのだから。

 音楽院設立時期。この時期はロシアの非常に面白い時代なので本芸術講座「ペテルで劇場へ行こう」を始め東京外国語大学などで講演させて頂いたロシアの「駅」にまつわる民間の音楽環境が発達した経緯も無視するわけにはいかない(これについて別記事で書こうと思う)。最初に挙げた作曲家名のリストの一番最初に書いたミハイル・グリンカがいわゆるロシア初の西側に通じる作曲家として登場した。それは「駅」やペテルブルク郊外のパブロフスクで出稼ぎ演奏に来ていたヨハン・シュトラウス2世とまたその弟ヨーゼフ・シュトラウスがグリンカの作品を積極的に一般聴衆に紹介したことはおおいに影響している。

 さて、話が逸れてきたが、そんなわけでロシアは1862年前後まで音楽の生産国ではなかったので、先述した「古典派(1770年〜1830年)」の時代を終えた頃にやっと音楽を生産するようになった。こうした状況をよくみると、ロシアも日本と同じく西欧音楽の輸入国であったことは事実である(日本は山田耕筰が1910年〜1913年にかけてドイツはベルリンに留学し、日本人最初の交響曲を1912年に書いた。交響曲『かちどきと平和』)。日本の方がさらに半世紀ほど後になって西洋音楽を輸入したことになるので、日本は比較にも及ばない程だが。

 話は紆余曲折したが、ロシアの首都が革命より以前はサンクト・ペテルブルクだったので音楽文化もその貴族生活の一部から派生し育ちロシア最古の音楽院、並びに音楽家輩出の環境を形成してきたのだ。だから、もし今この読者諸氏がサンクト・ペテルブルクにいる機会を得ているのならその連綿と引き継がれている音楽環境を経験せずにいるのはペテルブルクという街を楽しむ上で70パーセント以上は損をしていると言えよう。そして、もしも今まで西洋音楽に接っする機会を持たず臆しているのなら、芸術講座「ペテルで劇場へ行こう!」はその門戸を開けるにぴったりの入門レクチャーになることだろう。by 清水雄太

ぺテルで劇場へ行こう!』ペコのサイトにぜひ遊びにきてくださいね!


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