プラシーボとノーシーボ

どうも皆さん。今回は、暗示を上手く利用すれば味方に付けることも可能というお話をしたいと思います。

今までの記事で散々、バイアス、アンカリング、暗示に気を付けろ、というお話をさせていただきましたが、今回は一転して、暗示は味方に付けられるという真逆のお話をします。

皆さんはプラシーボとノーシーボという言葉をご存知でしょうか。筆者はよくわかってませんが、偽薬効果と言って、まったく効果の無いただのビタミン剤のようなモノを、こうこうこういう効能のある薬だ、と説明を受けて飲むと、本当にそういう効能が出るという効果です。

これは薬だけに限らず、人間は思い込むだけで本当に思い込んだ通りのことが身体に現れてきてしまうのです。

毎回、暗示に気を付けろと言っていたのはこういうことで、マイナスの思い込みをすれば、その通りになります。たとえば、「自分は頭が悪い」と思い込めば、本当に頭が悪くなっていきます。

こういうマイナスの思い込みが実際に現れることをノーシーボ効果と言います。

逆に、自分は天才で頭が良い、と心の底から思い込むと、本当に頭が良くなっていきます。こういうプラスの思い込みが実際に現れることをプラシーボ効果と言います。

そう、何ということか、人間というのは思い込めばその通りの存在になってしまうのです。世の中には「引き寄せの法則」というモノがありますが、自分自身の身体や精神に対しては、本当にその法則が適用されます。

自分の外部に対することに関して「引き寄せの法則」が適用されないのは、単に物理的に当たり前な話かも知れないし、あと考えられるのは、自分が引き寄せる想いと自分以外が引き寄せる想いが打ち消し合ってるとも考えられるかもしれません。まあ、ちょっと無理がある気がしますね、やっぱ物理的な因果の話なのでしょう、流石に。

ともあれ、少なくとも自分の身体と精神は、思い込むことで良いようにも悪いようにも変化するのです。だから、たとえ数学的エビデンスがあっても、自分にとって都合の悪いモノは信じちゃいけないのです。

自分にとって都合が良いモノは、場合によっては信じた方が良いこともあります。自分は頭が良い、とか、自分は健康だ、とか、自分は最高に性格が良くて優しい良い奴だ、とか言う風に、勝手に思い込んで良いのです。

何故か人間、自分が良い存在だと思うことに対して罪悪感を抱きます。何かと親や教師からは、何故か、調子に乗ってはいけない、自分を誇ってはいけない、慎ましくしろ、と言われ、ホイホイとその通りに、慎ましく生きてしまいます。

はっきり言いましょう。我が儘になって良いのです。皆してボタンを掛け違えているのですよ。調子乗ってはいけないのではなく、調子に乗ることによって前後不覚になるのが良くないのです。自分を誇ってはいけないのではなく、驕り昂ぶって他人を見下すのがいけないのです。慎ましくするのが良いのではなく、欲望に溺れて見境が無くなるのがいけないのです。欲望そのものは人間、持って当たり前なんです。無いと死にます普通に。欲望に溺れるのがいけないというだけなんです。

自分を大切にしましょう。そもそも自分を大切に出来ない者は他人も大切に出来ません。これもよく聞くフレーズですね。何より注意しないといけないのは、他人と自分を比較し、優劣をつけて考えようとすることです。自分のことはともかくとして、他人のことはそうそうわからないものです。ずっと一緒に暮らしている家族ですら、身内のことは殆どわかってないものです。それくらい、他人の見える姿は一面に過ぎないのです。

他人と比較するのはやめて、自分を最高の存在だと思いましょう。そして、他人にもまた、自分を最高の存在だと思わせてあげましょう。単純に「お前天才か」と言ってあげるだけで良いのです。自分も他人も、馬鹿にするのは辞めましょう、誰も得しませんので。

何故イエスが、他人に対して自分を大切にするように大切にしなさい、敵であっても愛しなさいと言ったのか、それは、他人はもう一人の自分であるからです。他人を傷つけたり、見下したりすることは、自分を傷つけたり見下したりすることなのです。何故なら、他人に危害を加えれば、その人は自分に同じことをしてくるからです。

その人が直接自分に反撃しなくても、その人に与えてしまったダメージは必ず自分のもとに返ってきます。たとえば、あまり動きが俊敏ではないけれども毎日きちんと働いている人に対して「お前は動きが遅い、使えない」などと毎日のように言い続け、その人が傷付き、とうとう精神を病み働けなくなったとします。

その人が病院に行き、精神疾患と診断され、退職して障害年金と生活保護を受給しなければならなくなった時、その負担は国に圧し掛かります。国に負担がいけば、税金を上げなくてはいけなくなります。税金が上がれば、それを支払うのは自分です。これほど愚かな話はありませんね。

だから他人を傷つければ必ず自分にもダメージが来るのです。自己責任なんてものは無いのです。だから愛し合いなさい、慰め合いなさい、助け合いなさいとイエスは言っています。

釈迦にしても同じようなことを言っています。釈迦は助け合えとは言っていませんが、「心を無にしろ」なんてことも一言も言ってないんです。無心なんてそれこそ無意味です。彼は諸法無我と言う言葉で、人と人の繋がりが一番大事だということを伝えました。

諸法無我とは、自分が何者であるかは、他者との関係によって決まる、自分は他者によって作られる、といったような意味なのです。自分以外無くして自分は無いと言っているのです。

自分自身も他者も、言葉一つでいかようにも変わるのです。だから、言葉には力があり、気を付けて使わなければならないのです。

だったら、自分を褒め、他人を褒めようではないですか。褒めちぎろうではないですか。それだけでヒトは何かを超越出来るのです。マイナスの考えなど、危険回避以外必要無いのです。プラスにプラスに考えましょう。

「〇〇は身体に悪い!気を付けろ!」
やかましいわ、わしゃコレが大好きなんじゃ!

「〇〇は身体に良い!どんどん摂取しよう!」
おおそうか、ならどんどん喰ろうてやるわ!

コレで良いんです。聞いてりゃ化学物質は身体に悪いだの、アレは健康に良くないだの、そもそも食べるモノは全部身体に悪いモンなんです。だから五臓六腑に毒を負担させるように身体は作られているのです。特定のナニカが身体に良くて、特定のナニカが身体に悪いとかチャンチャラおかしくてへそで茶が沸くってもんですよ。身体の調子を整えたけりゃ、水を飲めば回復します。水を飲むと全身の毒素が少しだけ流れて、尿や糞や汗として排泄されます。まあ、水にも少々の毒が含まれちゃあいるんですけどね。

何食っても身体に良い、何しても身体に悪いことはない、そう思えば本当に身体はその通りに働いてくれます。どんだけ頑張っても寿命なんて伸ばせないし、伸ばしたところで問題を先送りにしただけに過ぎません。遅かれ早かれ、人は必ず死にます。死は喪失でもありますが、唯一の真の安らぎでもあるのです。

バイアスだのアンカリングだの暗示だのに逆らえないってんなら、そいつを利用してやりましょうや。自分は大天才で、自分は最高に良いやつで、自分は超健康で、もうたまらねえや!自分だけじゃねえ、隣にいるアイツも大天才で、最高に良い奴で、超健康!最高だな人生ってヤツはよ!ってなもんです、いい加減気付きましょう。

以上、プラシーボ効果とノーシーボ効果、即ち人間は思い込みで何とでもなってしまうというお話でした。


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