「知らない」こそ悟りであり「知っている」は野狐禅と言う

般若心経の一説である「無無明尽」、そして禅の偉人である菩提達磨の「不識」。どちらも有体に言えば「わからない」「知らない」「知りようが無い」という意味になる。

古代ギリシャの哲学者ソクラテスも「不知の自覚」という考え方を説いた。

そして、毎度おなじみ数学の「不完全性定理」に量子力学の「不確定性原理」。賢い人であるほど「知らない」とはっきりと言えるのだ。多くの物事を知っているからこそ、世界は知り得ない事の方が圧倒的に多い、と言うことに気付ける。

さて、禅の世界には「野狐禅(やこぜん)」と言う邪禅がある。

百丈が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。
ある日老人は退かず一人残ります。百丈は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と声をかけた。
老人は「私は人間ではありません。大昔この山この寺の住職として住んでいた。ある時、一人の修行者が私に質問をした。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えた。その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。正しい見解をお示し助けて下さい」と懇願した。
そこで、この老人が百丈に同じ質問を問う。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのか?」。
百丈は即座に「不眛因果」(因果の法則をくらますことはできない)と答えた。
老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去った。その大悟にて野狐の身を脱することができたという。
この問答のあと、百丈は寺の裏山で死んだ狐を亡僧法に依って火葬した。

wikipedia 百丈懐海「 百丈野狐」

禅をマスターすれば因果の制約を受けないと答えたことにより、この百丈の逸話に出てくる元住職の老人は五百回も野狐(狐の妖怪)として生まれ変わってきたとのことだ。それに対して百丈は、どんなに修行を経ようとも因果の法則を曲げることは出来ないと返し、それを悟った老人は野狐の転生に終止符を打つことができたという話だ。

これはつまり、すべては「空」であるから無意味だ、「空」であることさえ悟れば良い、即ち「色」である因果など無い、無いものの制約は受けない、と考えたことで、誤った禅を修得し、功徳を失ったということだろう。

禅にせよ他の仏教思想にせよ、色即是空ではあっても、同時に空即是色でもあることを忘れてはならない。色は空であるから、確かに因果はあってないようなものではある、が、だからと言っても我々は確かにこの「肉体」という色を持っており、それ故に因果という色に支配される。

そして因果に支配されるということは即ち「因果を知ることはできない」ということである。当然だ、因果を知ることが出来るなら因果に捉われることは無い

つまり、「私は知っている」「私は高い教養を持っている」「私は悟った」このような物言いは正に野狐のレベルの人間が持つ浅学さが生むもので、真に悟りを得た者は「私は知らない」「私は無学だ」「私は悟っていない」と言う。ちなみにこれは決して自尊心を低く保っているとか、自虐的だったり自己肯定感が低いことを意味するわけではない。「私は自分が無学で何も知らないと言うことを知っている。無知を自覚しない者よりは賢いと自負する。」というある種の勝利宣言である。

そもそも、本当に悟っていて高い教養を持っているならわざわざそれを宣伝しなくても、他者と接すれば普通に評価してくれる。自分の能力を誇示しようとするということは、自信が無いことの裏返しだ。(ただし、ハロー効果やピグマリオン効果、メラビアンの法則を前提としているものは除く。)

ちなみに野狐禅は別名「増上慢」とも呼ぶ。

増上慢(ぞうじょうまん)とは、仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと。
四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。すなわち自己の価値をそれ以上に見ることをいう。また俗にいう自惚れに相当する。
倶舎論巻19には、「いまだ証得せざる殊勝の徳の中において已(すで)に証得すると謂(い)うを、増上慢と名づく」とある。また法華経の方便品第2では、釈迦が法華経以前に説いた教えは仮の教え(導入部)だったとして、これから真実の仏法(本題=題目)を説こうとしたところ、5000人の増上慢の比丘が「それならば聞く必要はない」としてその座を立って去ったとある。これを五千起去(ごせん・ききょ、きこ)という。

wikipedia 増上慢

更にそもそものそもそもで、「知らない」ことが「」だというわけのわからない思想が蔓延しているのが問題なのだと思う。人間一人の能力などたかが知れている。自分に少々「知らない」ことがあったからと言って社会が崩壊するわけではない。むしろ「知らない」からこそ「知ろうとする」のである。「私は悟った」「私は教養がある」という宣伝こそむしろ「大恥」であり、そこに向上心は生まれない。どれほど歳を重ね、どれほど学ぼうと、人は死ぬまで未完成なのが当然だ。

ちなみに昔の人は、おかしなことを言い出す人を「狐憑き」と呼んで忌み嫌った。恐らくこれも「野狐(やこ)」から来ているのではないだろうか。野狐にせよ増上慢にせよ、これらの最も恐ろしいのは教養の低さや品性の下劣さなどではない。教養が低いなら学べば良いし、品性が低いなら己を見直して高めれば良い。しかし驕り昂ぶってしまった者は、自分が賢いと思い込み、他人を下に見るが故に他者から指摘されても自覚できなくなってしまうことにある。こうなってしまってはもはや更生の余地は無い。故に、低俗な状態から500回生まれ変わっても変われない「野狐」として、百丈懐海でそれを恐ろしく表現したのだろう。


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