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予防接種

 名前が呼ばれた。他愛のない記事が表示されたスマートフォンを切り、私は戦場へと向かった。
 案内され場所は、簡素なベッドである。三床がみんな同じ方向を向いていて、衛生兵の彷徨く野戦病院を彷彿とさせた。私はその一床に押し込められ、その空間は梔子色のしたカーテンで仕切られる。私と同時に他二人の名前も呼ばれていて、彼らは残るベッドに同様に収容されているらしかった。
 時間が流れる。一枚壁を挟んだ向こう側からは、現在診療しているらしい様子が聞いて取れた。
「では、この薬を二日に一回、いや、痛いときに飲めばいいですね」と年配の女性の声が響く。
「そうですね」と老紳士の声が応じる。
「そういえば、この前のサポーターが少しきつかったからもう少し緩いのでもいいですか?」
「じゃあそうしましょう」
「ありがとうございます。では、今日はこの薬を頂くということで。帰りにリハビリのやつ使いますね」
「はい、わかりました」
 はじめ、女性の方が医者かと思っていたのだが、どうやら逆らしい。しかし、これではどちらが診察されているか分からない。
 しばらくして声が止み、足音がこちらに近づいてくる。私は姿勢を正し、やってくるであろう金属製の針に身をこわばらせた。カーテンを開けた彼は、想像していた通りの老紳士である。嗄れた声をそのまま音声波形で切り取ったような掌の皮膚には、キャリア相応の熟達度合いが窺えた。
 一通りの聴診を済ませた後、彼はここを後にした。受付で測った体温は七度一分と少し高めであったが問題なかっただろうか。体感としてはピンピンしているのだが、どうも身体と精神は一挙体制でないらしい。ややあって看護婦がプラスチック製のトレーを手に入ってくる。その純白のトレーには例の器機が収められていて、それで今から私の身体を突き刺すのだろう。予見できていたとしても、やはり身体は硬直を続けた。ベッドに座る私の真横に彼女は座し、まるで鬼ごっこの途中で怪我をした我が子を手当てする母親のような様相で作業に着手した。腕を捲くり、指定された体勢で待機する。昔に彼女が言った、肘上数センチに刺突といった事態にならぬよう、私は全力で二の腕を主張した。
「チクリとしたら言ってくださいね」
 突き刺すコンマ数秒前に言われても困る。加えて、痛みを訴えたところで何の解決にもならないであろう。皮膚の奥で鈍い痛みが走る。二の腕を中心に短い疼痛が波及し、腕がぶれる。しかし、声を出すことをプライドは許さなかった。固く閉ざした喉の奥から形にならない声が戸を叩く。若干の顔の硬直を悟られないよう、腹筋に力が入る。ここまでは無事だ。金属の挿入にはある程度の耐性が付いてきているようである。
 しかし、ここからが問題。通常は注目もされないここからの段階が、私はどうも苦手なのである。
 看護婦は徐々に親指へ力を込め、次いで無色の液体がその量を減らしてゆく。皮膚の底で異物を感知するこの瞬間が、どうにも私を不快にさせた。送り込まれた液体ではちきれんばかりに膨らんだ二の腕を想起する。心做しか左腕の方が重いように感じる。異常に長い時間が繰り返される。一瞥すると、注射器はまだ半分ほどしか押し込まれていなかった。もうここで腕を引いてしまおうか。出来もしない妄想が頭を埋め尽くす。そうしている間にも刻々と液体は僕の体に注がれていて、私でない何かが体中を駆け巡る。全身が、その無害な毒を玩味していた。
 看護婦の指が止まり、慎重にその器具を私の身体から抜く。気づけば私は目を瞑っていたようだった。一連の手筈を経て私の体には、インフルエンザの亡き骸、そして頼りない切手ほどの絆創膏だけが残った。
 私はその骸に四〇〇〇円を支払った。

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