おしゃれとおめかし
私は、おしゃれとおめかしは別物だと思っている。
私の思うおしゃれは、コンサバとは対極にある。おもちゃみたいな小物やアクセサリー、コケティッシュな柄のスカートや靴下、くるっくるふわっふわのパーマ、眉上でぷつんと切り揃えた前髪。例えにアパレルブランドを上げるならば、beams boy、ビュルデサボン、didizizi、childwoman、ミナペルホネン、marimekkoなど。
あまり女らしくない、色気がない代わりに、デザイン性が高くてアーティスチックな感じ。一見無骨に見えるけれど、実は上質でこだわりがある感じ。
一方のおめかしは、おしゃれとは反対に、コンサバ、綺麗め、フェミニン、モテなどのワードが相応しい。“自分が綺麗に、美人に見えること”を目指した装いを指す。ユニクロだろうがしまむらだろうが、化繊だろうが縫製が甘かろうが、とにかく自分をよく見せてくれるアイテムなら、アイテム自体にクオリティやアート性に頓着しない。自分をよく見せるというのは、つまりスタイルをよく見せるということ。胸はツンと高く、腰はきゅっと細く、脚はスラッと長く。
アイテムのデザイン性もアート性もなく、こだわりもないけれど、とにかく自分が女らしく、美人に見える。
私は元来、おめかしよりおしゃれの方が好きなタチのようだ。ショッピングで食指が動くのは、断然おしゃれのためのアイテム。おしゃれのアイテムは自分に似合う(=スタイルをよく、美人に見せてくれる)かどうかは度外視で、ただアイテム自体の可愛さや、制作のストーリー性などを重視するので、芸術作品としてときめいている節がある。そういう服はたいていお値段もいいのだが、「イイモノだから!」と購入した時の高揚感、満足感も高い。購入後、我がクローゼットにかかっているのを見ても、やっぱり可愛い、と顔が綻ぶ。逆に、体型に似合うからと買った化繊のブラウスやニットは、クローゼットで並んでいても全く愛でる気にはならない。
しかし困ったことに、実際の社会生活においては、おしゃれよりおめかしをした方が、圧倒的に快適に過ごせることに気付いてしまった。
憚らず表現するならば、安物でおめかししている日の方が、高い服でおしゃれしている日より断然チヤホヤされるのだ。同年代の女性なんて、こちらのおしゃれ心を分かってくれそうなものだが、老若男女問わず、決まっておめかしの日に扱いが丁重になる。
おめかしの時ほど「おしゃれですね」と言われるのだ。
この一点ものの洗いざらしのTシャツの良さは、他所様には全く伝わらないらしい。1,290円でセールワゴンに突っ込まれていたユニクロのニットの方が、断然褒められるとは、これいかに。
そうなってくると、あんなに愛着のあったおしゃれのためのアイテム達が、途端に憎らしく見えてくる。高いお金を出したのに。こんなに上質で可愛いのに、その価値を分かってもらえないのも、何とも悔しい。気分よく身につけていたのに、何だかケチがついたような気分。そういうアイテムは、何となく手が伸びなくなる。箪笥の肥やしになるのも悔しい、だって高かったんだもの…。じゃあ売ってしまう?そう思ってリサイクルショップに持ち込んだとて、マイナーでニッチなブランドだからか、予想より遥かに安値で買い叩かれてしまう。何なら一緒に持ってきたユニクロのアウターの方が高値がついたりする始末。
高かったのに…。
手放す段になってなお、ケチがついた気分。
お宝鑑定団に登場する収集癖のご老人方、そして彼らの自慢の一品に購入時の百分の一にも満たぬ安値がつくのを呆れ半分で眺めていたが、私のおしゃれ服収集も、ほとんどそれに等しいのかもしれない。
ましてや骨董品でも絵画でもなく、洋服。骨董品と違い、洋服は愛でる対象、アート作品ではない。自分をよく見せ、より快適な人生を送る下支えをしてくれるアイテムを、なぜ選ばない。
書いていて嫌になってきた。
重い腰を上げて、リサイクルショップにて、我がお宝たちを鑑定してもらう時が来たようだ。
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