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日本文学の小粒化


 海外文学というものは、普通は翻訳でしか読めない。原文のおもしろみを味わいたくても、なかなか語学力が付いていかない。知人で東大を出ている御高齢の文士がいらっしゃるが、彼によると、原文で読んだことはあるが、その国に住む国民と同じような感覚では、読むことは出来ないだろうと。国民性も異なる文化も食い違った国の作者の綴る小説は、やはりじっくり検討してとつおいつ推敲されたものを読む方が、もとの文学世界に近付けるのだろう。

 そういう意味で、海外文学というものは、翻訳によってかなり風味が異なってくる。訳文にしても変化しない部分など、ないようにすら思う。それでも、各国に訳されて世界的な支持を集める文学もあるのだから、そのような文学は、表現された小説世界が、さまざまな角度から訳されても、味わい深いものである必要がある。

 海外文学でもっとも僕が推すのは、何と言ってもドストエフスキーだろうか。「未成年」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「白痴」「悪霊」この五大小説の中で、どれか必ず理解できるものがあるというような多様性をもつのがドストエフスキーである。特徴としては、一人の台詞が長い、ところどころ作者の説明が入る、登場人物が多様だ、などが挙げられるが、一番読み応えがあるのは、多くの登場人物の価値観のぶつかり合いだろうか。一人の価値観を述べることなら、どんな凡庸な作家でも出来るだろう。しかし、ドストエフスキーは、多くの哲学をそれぞれ異なる登場人物に語らせて、対話を構成する。これは、ちょっとの人間理解では出来ないことである。

 「悪霊」に出てくるキリーロフは、自殺をすることによって神になれるという哲学を以て、自殺する登場人物である。キリーロフは、一トンの岩を人の上に持って来て、その岩を落としたらその人は痛いだろうか、と言った質問をして、それは痛くなくても痛みへの恐怖があるといい、その死への恐怖の克服のためだけに純粋に死ぬことの出来る人は、神になれると主張する人である。これと似た考え方が、たとえば「白痴」のイッポリートによって語られるが、イッポリートは神になれると思ったわけではなくて、自分の権力を行使したくて、絶望のあまり自殺したという感じである。イッポリートは余命僅かと言われた肺病の少年で、すべての生き物は死ねば瓦礫同様だから、死んでいるのと同じだと言い、そのような神の仕儀とも言える無常的死の義務に関して、余命僅かな者に許される最大の自由は、自殺しかないと言って、自殺を試みる。似てはいるが、まったく同じではない。

 このように、さまざまな価値観の人物を書き分けるところに、ドストエフスキー文学の最大の魅力があるように思えてならない。ドストエフスキーの訳文を読むと、風景描写はそれほど美しくないのに、台詞やストーリーから語られる人物描写が、とても繊細に生き生きと作されていることに気付く。ドストエフスキーの描写対象は、あくまでも人間であり、人間の性格なのだろうと思う。

 最近の日本文学を見るに、どうもちっぽけな作品が多くて、文学賞の衰退を思わずにおれない。それは、ドストエフスキーとは時代が違うとか長さが違うとか、言うかも知れないが、あのような色の濃い繊細なしかもドラマチックな小説は、現代の小説家は書けなくなったのだと思う。話が出尽くしているとか、ネタが尽きているとか、そんな問題ではない。小説家が小粒化している。特に、ラノベなどの文化が生まれてしまったために、底の浅い派手で判りやすい文学ばかりが、商業出版されるようになった。これは、出版業界の嘆かわしい功罪である。メディアが多様化して、本が売れなくなったからと言って、売上ばかり考えた結果が、このような文学の廉価化を産んだ。もう、今の日本にドストエフスキーのような文豪は望むべくもない。

 村上春樹は、多くの国に訳されているが、やはりドストエフスキーのような器はない。ノーベル賞作家自体にしても、そのような太古の文豪のような器は感じさせない人が多いが、日本はもっと酷い。村上春樹が、もし日本文壇に暖かく迎え入れられていたならば、ひょっとしたらもっと大成したかもしれないし、しなかったかもしれない。しかし、言えることは、日本の文壇は小粒の人が多すぎる。大手文学賞が保守的でつまらぬものばかり選ぶからである。実際、応募作品の中には、出版社に認められないながらも、とても斬新で画期的な作品も、眠っているように思うのだ。これだけ多くの人が小説を書いている時代も、なかなかないと思うからだ。

 海外がどうかは判らないが、現代日本の文学はあまりにも矮小化しすぎている。日本の現在のなさけなさを知るためにも、海外文学を翻訳からで良いから、読んでみることをお勧めする。

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