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「東京都同情塔」九段理江著。

 生成AIを使用して書かれた小説ということで、初めは莫迦にしていたが、人類における生成AIのあり方的なテーマもあるというようなことを聞き、読んでみることにした。
 読後、まず思ったのは、欲張りすぎということである。あれもこれも盛り込みすぎ。生成AIから始まって、犯罪者のあり方、平和とは何か、建築はどうあるべきか、その辺りまでにしておけばまだしも、自意識の発生についてのモデルの提示まで来ると、テーマが拡がりすぎて、作品として締まりがなくなってしまっている。
 この自意識の発生について、言葉が鍵だとの案は、安部公房に見られるものだけども、彼の影響が色濃いのは、建築家牧名の不必要とも言える外部と内部に対する考察にも窺える。安倍氏の代表作「壁」は、壁にぶち当たって八方塞がりになったときには、自身が壁になって成長していけば良いという、乱暴だが大雑把に言えばそのようなテーマの小説である。この命題に対して、僕も精神病で隔離室に閉じ込められたときに考えたことがあって、隔離室の壁を破るには、隔離室の中を外よりも素晴らしいと思える世界にして、それを世の中に広めれば良いのだという結論に達したのだけれども、それとそっくり同じ思想が、東京都同情塔なのだ。この発想は、おそらく「壁」の影響によって生まれたものであろう。
 そのテーマを掘り下げるならば、牧名という建築家はもっと平凡な人にした方が引き立つのに、牧名は言葉が全てと考える小説家のような建築家である。プロの建築家のことをあまり知らないけれども、たとえば透視図から考えて、設計していく建築家がどれだけいるのだろうか? 透視図を絵画と似たようなものと考えているようだけれども、透視図は美しさは求めないのだ。ル・コルビジェの達した心境でも、「建築は住む機械」でしかない。そこは機能が何よりも優先されるべきであり、外観は二の次なのだ。外観から設計する建築家が、一流と言えるだろうか? そのようなところや、言葉に囚われて偏執的に考えるところなど、おおよそ建築家らしくなくて、どう考えても小説家のなり損ねのようでしかなく、リアリズムが欠けている。
 まあ、もともと、東京オリンピックの国立競技場がザハ案で建築された異世界の話であり、リアリズムは捨てているのかもしれないけども、牧名は、建築を彫刻か何かのように履き違えた元ジャーナリストの芸術家のような人物で、こんな人実在しないなという気がした。申し訳程度に、子供の頃は数学が得意と書いてあるから、なおさら嘘くさい。
 それで、その嘘くさくも個性的な建築家が活躍するために、生成AIがどうあるべきかというようなテーマは、殆んど語られないままだし、犯罪者に対して差別をしない社会という理想についても、落書きのような絵を書き殴っただけで、テーマを浅くなぞるに終ってしまっている。そのテーマは、この小説の中で中核をなしているとは思われるけども、深く掘り下げていないので、ただのSFと変らない軽さがある。
 拓人に関しても、犯罪者の子供らしからず出来た人間であり、本来ならば犯罪を犯しても不思議のない、それこそホモミゼラビリスなのに、ブランド物を身につけた洗練された男であるのが、ますますもって非現実的である。牧名が読んだ本の中に、その母親のインタビューが掲載されているのに、偶然に街中で容姿に惹かれて、牧名が拓人をデートに誘うというこの世界の狭さは、かなり小説として面白くない。社会が狭い小説は、ちゃちである。この小説も、その点がかなり悪印象である。
 牧名が、頭が悪い所為か、そのような拓人の美貌に惹かれる物質主義的嗜好の持ち主であるのも、どうにも建築家らしくなくて、人生経験や社会勉強の足りない未熟者にしか見えない。整合性が取れているとすれば、ラストで牧名が、自分の塑像が同情塔のまえに建つことを想像するところであろうか。つまり、いろいろ格好付けて正当化しているけれども、牧名の活動動機は名声欲でしかないということ。そのあたりの浅ましい欲望に関しては、無抵抗に認めてしまっていて、そこで判るのは、やはり牧名というのは、思慮の足りないイカレた女性だなというだけである。
 まあ、小説は虚構だから、基本的に何を書いても良いのだけれども、もう少しテーマというものに重きを持たせて書いた方が良いのではないかと思わせる小説だった。

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