見出し画像

「菜穗子」堀辰雄著。

 高志の国文学館で氏の展覧会があったので、その名前はうろ覚えするほどに耳にしたことはあったにせよ、殆んど知らなかった堀辰雄氏の小説を読みたくなった。それで、私小説からロマン派にシフトする試みの作品という「菜穂子」を選んだ。
 とても魅力的な小説世界なのは、少し噛み砕くのに時間が掛かる長めの文体の所為なのか、浅間山を中心にした静謐な小説の舞台の所為なのか、いずれにせよ美しさを感じさせる情趣深い作品だった。しかし、一方で、この小説により作者は何を伝えたかったのかというような、顕著なメッセージ性がまるでない。始まりが菜穂子と不仲だった母親の日記から始まっていて、導入部としてとても興味をそそるのだけども、読了したあと、はてあの日記は何だったのかと問い返したところで、せいぜい菜穂子の結婚の動機が親への反抗心を含んでいたというようなことを、印象深く表現したというふうにしか思われず、その必然性のないドラマチックさはつまりは技巧ばかりが先立っているとも言えるかもしれない。そのような導入もそうだし、都筑明を登場させた意味についても、それほどリーズナブルなものがあるようには思えず、ただ菜穂子の人生絵図を少しばかり複雑にしたような意味しか見いだせない。そういう意味では、よくよくプロットを練って登場人物をしかるべくして動かしているような、物語の設計をあまりしていないようでもあり、展覧会で掲示されていたように、それは氏がもともと私小説を書いていたことの名残でもあろうかと思われる。その辺りが、逆にうまくリアリズムを増してもいて、小説世界の奥行きを広めているように思われる。
 表題が「菜穂子」という女性の固有名であることに関して、氏はこのような女性を描きたかったのかもしれないのだが、結局のところ、菜穂子は自己実現できるでなし結婚に成功するでなし、非常に中途半端な立場で物語を終えている。余韻として残る彼女の未来への予感も少なくとも明るくなく、このように耐えて諦めるだけの人生の人を書きたかったのかという気もしないでもないが、彼女はそのくせ、反省や後悔がほとんど浅く、これと言って世人の鑑になるような何ものかが提示されているわけでもない。つまりは、人生訓というものが、この小説からは殆んど感じられない。
 それでも読ませる面白さというのは、シーンのドラマチックさであり美しさである。たとえば、駅のホームで中央本線の特急の通り過ぎるのを妻に想いを馳せて見送る圭介や、O村の外れの森の中の氷室あとで早苗と無言のデートを繰り返す明など、絵になる情景が作中に多く鏤められている。この小説は、つまるところそのような、小説世界の美しさそのものを、純粋に描いたものでしかないのだろう。そのあたりが、非常に芸術的である。テーマもメッセージもない、ただ小説そのものの美しさが、この小説のテーマなのである。
 いろんなものを読むと、とかくテーマやメッセージ性を持たせた方が、文学性が高いように感じてしまうけども、美しさのみを追究するのであれば、むしろそれらの属性は邪魔でしかない。プロレタリア文学のように政治性の強いものもあるが、そのような文学は純粋な美が、却ってテーマの妨げになる文学である。人は、作品から集中されたテーマを一つ受け取りがちであり、幾つものテーマが盛り沢山のものは、まとまりを欠いてどのテーマも中途半端に感じられてしまうものだ。そういう意味で、「菜穂子」は、メッセージ性を諦めて、純粋に小説の美しさのみを追求した、耽美的な作品といえるだろう。ただ、耽美と言っても美に酔うことがなく、庶民の感じる素朴な美しさの域に慎ましく留まっているのが、却って成功している。それは、浅間山に代表される自然の美しさに準えているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?