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“1”が必要

よくお声が掛かる絵画サークルへ仕事へ行った(私の仕事はデッサンのモデル)。ここのサークルの参加者は、長く絵を描かれている方が多く、皆さんそれぞれの個性が際立った素晴らしい絵を描かれる。終了後にその日に描いた絵を床に並べ、お互いに見せ合うのだが、その輪の中に私も加わってお喋りするのを楽しみにしている。

いつも通り、仕事を終えて挨拶をして帰ろうとしたところ、一人の参加者の方から声を掛けられた。お名前を存じ上げていないので、Aさんとする。
Aさん:「○○大学にもお仕事に行かれてるんですね」
私:(そういえば、今日、Aさんの隣の方とそんな話をしていたなぁ…と思いつつ)「そうなんですよ~。よく呼んでいただいてまして。」
Aさん:「私、その大学の出身なんですよ」
私:「あぁ、そうですか~。」(へぇ~。あの大学の芸術学部出身なのか。そりゃうまいわけだわ。)
Aさん:「学生が喜ぶでしょう。プロポーションが素晴らしいもん。」
私:「…ありがとうございます。」
あまりにもストレートな誉め言葉に戸惑い、なんとかお礼だけは言って辞去した。

帰り道、そして今この瞬間も、Aさんのこの言葉が、この数週間「外見がイマイチだから誰も親しくしてくれない」と悩んでいた私にじわじわと効いている(過去記事参照:https://note.com/pearl6853/n/n49782d5f2170)。Aさんがそう思ったということが、他にもそう思う人がいるかもしれないという希望に繋がって気力が戻ってきた。1:有ると0:無しでは大違いなのだ。

この”1”、つまり”特別なことをせずとも、自分のことを好ましいと思う人がいるのだ”という揺るぎない事実は、親から与えられる人が多いのだろうが、私の場合は残念なことにそうではなかった。1が有れば、心が弱ったときに、その記憶を自分の支えや希望にできる。でも無ければ、自分で自分の価値、社会的な地位とか、所有物に寄らない無条件の価値を信じられるように気持ちをもっていくしかない。今回のAさんの言葉のような、他人からの何気ない優しさを栄養にして、自分で自分を立ち直らせ、育てていくしかないのだ。

Aさんは、昨日の自分の感想が、私をこんなにも元気にしているなんて想像もしていないだろう。だから私も誰かのことを「ステキだな」と思ったら、素直に伝えようと思う。伝えた相手にとって必要のない言葉だったら、その場で捨ててくれればいい。でも、時にはそれが、偶然その人の光になることもあるのだから。

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