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御糸さち「ふらわーぽっとと」を読む

 さちさんの短歌は、生活を切り取った短歌である。決して難しくなく、平易な言葉で切り取るのが上手い。その目線は鋭く、なのにユーモアたっぷりであるから、説教くさくなく読み手の心に残る。今回いただいた歌集「ふらわーぽっとと」は、詠まれた時期がここ数年という最近の時期であることから、時世を詠んだものも多く収録されているが、生活者として、女性として、また母としての日常が、さちさんの解釈でリアルに記されている歌集と言える。
 この文ではその中から、特に好きだと感じた歌を取り上げている。拙い感想で申し訳ないが、プレゼント企画で当選させていただいたお礼としたい。


 
非日常それも日常 手にとったトマトを棚に戻せぬような
 連作「春に雑音」より。コロナ禍の只中にある生活、その心もとなさを淡々と描いた連作だった。マスクを着用して外に出ること、事あるごとに手指消毒をすること、他人と距離を取ること、などはもはや非日常ではなくなった。そのことにふと気づく瞬間を、よくある買い物のシーンで浮かび上がらせている。
 


本当はおんなじ命(ほんとうに?)被告と弁護士が笑ってる
 連作「設定」より。朝の家事の合間に目に入る(バラエティ色の強い)ニュースの映像はあまりにセンセーショナルで、リアリティが薄れて見えることがたまにある。「本当はおんなじ命」であるということも、神妙な面持ちのはずの裁判の登場人物が笑っているように見えることも、別の世界の遠い話のようだ。(ほんとうに?)と呼びかける心の声だけが実感を伴っている。さちさんの鋭さが光る歌だ。
 


無償の愛、なんて歪な慣用句 バラはやさしく抱いても痛い
 連作「恥」より。恋の歌を詠めない、とよくおっしゃるさちさんの、切ない恋の連作と読んだ。どの歌も恋の歌として素晴らしいが、特にこの歌の上の句と下の句のバランスがいい。バラを抱けば棘が刺さるのは見れば分かるのだ。それでもきっときつくも抱いたりしてみたのだろう。終わる恋のどうにもならなさ、もはやここまでという無力感が伝わってくる。
 


わたくしは畑でありたい玉ねぎの根っこを深く受け入れながら
 連作「玉ねぎ」より。玉ねぎだけでこの10首連作が詠めることがまずさちさんの作歌力の高さを感じさせる。さらにそれはただ受け狙いとか見たまま短歌というだけではなく、さちさんの視点の鋭さによって歌に深みを持たせることができているのが凄い。玉ねぎを我が子と置き換えることもできる歌もあって、そう読めばとても考えられた連作であるといえる。
 


ひとりきり電車に座るよろこびが漏れないようにまぶたをおろす
 連作「自由時間」より。電車に乗れば我が子から目を離せないから、電車でうとうとするのも贅沢な自分のためだけの時間だ。そうやって、母である自分と離れて自分を取り戻す時間はどうしたって必要であると知ったのは母になってからだった。「よろこびが漏れないようにまぶたをおろす」の比喩が、そのあたたかくささやかな幸福を思い出させる。



インスタント☆コーン☆ポタージュ!スプーンがくるくる描き出す魔法陣
 連作「もーにんもーにん」より。さちさんの短歌のもうひとつの魅力はこの言葉遊びの巧さだ。インスタントのスープを見て「これ魔法の呪文みたいじゃね?」と短歌を作るセンス、これはなかなか後天的に会得できるものではない。真似できない。
 


「としをとってもしにたくない」と泣いている子の髪を撫でるずーっとずっと
敬称をちょうちょにもスカイツリーにも 敬うものの多い年頃
園庭へ入れば春だ 両親を両手に咲かせている子どもたち
目まぐるぐる走って育って笑ってる嵐に巻き込まれて回って
 連作「目まぐる」より。我が子の成長を見つめる、この歌集で最高の連作。何か書こうと思っても読み返すたびに目が潤んでしまってだめだ。それは、自分も通り過ぎてきた、あるいはこれから通る道が記された歌たちだからだ。
 親とはなんて無力な存在なのだろう、と親になってから何度も思った。泣いている子の髪を撫でることしかできないし、あっという間に大きくなっていく子の時を止めることも、走り去っていく後姿を引き留めることもできない。ただ、さちさんの育児短歌はそういう湿っぽい感傷から一歩引いた目線で我が子を見ている。慌ただしい日々のひとかけらを拾い上げるその目線は、ただあたたかく、その慌ただしさを子とともに楽しもうとする姿勢が最後の歌から見えた。
 


博物館に〔 STAFF ONLY 〕数多ありひとつは中生代へと続く
 連作「恐竜」より。我が子を連れて国立科学博物館へ恐竜の展示を見に行ったことをベースにした連作だろう。博物館に「STAFF ONLY」と書かれた扉を目にすることはあっても、それが恐竜が生きた時代へと続く扉である可能性に気づくのは、さちさん独自の日常の切り取り方によるものであろう。それくらい恐竜の世界に浸れる展示だった、という比喩なのかもしれないし、もしかしたら本当に中生代に行けるのかもしれない。
 


〈緊急連絡先〉
“母親の携帯番号は必ず(父は出来れば)書いてください”
〈職業は主婦ですまたは無職です(無色です)あの、聞こえますか……(亜久津歩)〉
働いていてもいなくても母親は無色 一緒にすんでいるだけ
花は女の比喩ではなくて単に花 単に人間として生きたい
 連作「年賀状」より。この連作は、園からの年賀状の宛名に父と子の名前しかない(母の名前がない)というエピソードがベースになっている。わたしも似たような経験がいくつかあって、そのたびに叫びたいくらい悔しかったのを覚えているが、言葉にするとなんてことないことのようで、くだらないと笑われそうであまり他人には(夫にすらも)言えない。
 一首目に引いた歌はわたしも出会った現場である。「そりゃわたしの携帯番号書くけどさあ……」ともやもやした気持ちになったことを覚えている。そういう違和感は少しずつ積み重なっていくもので、そのたびに自分が何者でもない「無色」の存在であることを思い知らされる。二首目に引いた歌は、亜久津歩さんの歌を詞書にしている。亜久津さんは(おそらく専業)主婦=無職であることを「無色」としたが、さちさんは重ねて「働いていようとも無色」とした。母親は簡単に子の黒子として生きているように扱われてしまうのである。
 しかし、主体はそれをめそめそと嘆かない。現状を変えるために正当な方法で行動し、実際に母親を無色でない存在にする(年賀状の宛名に母親の名も載せる)ことに成功するのだ。その変化は小さなものかもしれないが、主体が人間として生きるための大きな現状変更である。三首目に引いた「花は女の比喩ではなくて単に花」という言葉にはっとさせられる。それは自分は母親であり人間であるという高らかな宣言だ(当たり前のことなんだけどね……)。
 


 
 以上14首を好きな短歌として取り上げた。「玉ねぎ」「目まぐる」「年賀状」の連作は是非連作ごと読まれてほしい作品なので、この歌集は限定配布ではなく恒常的に売られてほしい。ふふっと笑えて、時々泣けて、寄り添ってくれるさちさんの短歌を、もっと多くの人に知ってほしいなと思っている。
 
 
過去という箱にすべてを詰め込んで未来を抜けた先には未来


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