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わたしは、焼け石


年を重ねると、意識してやらないと新しい体験をしなくなる。
わたしには、ずっとやりたいと思いながらなかなか実行できずにいることが一つあった。
それはサウナへ行くことだった。

テレビや動画で誰かがサウナに入って「ふー」とか「はあぁー」とか言いながら気持ちよさそうにしているのを見るのが好きだった。
「共感的快適性」とでも呼びたくなるような、一緒に気持ちよく感じているような錯覚に陥るのだ。
繰り返しそんな光景を見ているうちに、わたしも実際に気持ちよくなってみたいと思うようになっていた。

ただわたしにはサウナでの苦い思い出があった。まだ幼い頃初めてサウナに入った。暑さに弱くて、3分も入っていないのにのぼせたように頭がくらくらして、それから30分ほど頭がぐわんぐわんを揺さぶり続けられるみたいに気持ち悪くなったのだ。サウナはトラウマになった。

今は「サウナのととのい方」がたくさん紹介されている。
このハウツーを使えば、なんとかサウナを克服できるのではないか、今挑戦しないでいつするの(今でしょ)、と思った。
ちょうど宿を探しているとき、「昨年オープン!県内初!サウナ専門フロアあり!」と書かれたホテルを、えーい!と勢いで予約した。

チェックインしてすぐに荷物だけを部屋に置き、サウナへ直行した。
宿泊客以外も利用でき、先客が二名いるらしかった。
そのサウナは、洗い場にシャワーが三つ、三段設けられた広くもなく狭くもない中くらいの広さのサウナが一つ、個室サウナが一つ、半露天フロアに水温が違う水風呂が三つと椅子が三脚置かれていた。
先客は個室サウナにいて、扉を隔てて籠った話し声が聞こえてきた。
わたしは誰もいない中くらいの広さのサウナの一番下の段に腰掛けた。

一分もしないうちに「暑い」「息苦しい」に襲われた。
どうしてサウナではあんなに空気が薄く感じるのだろう。吸っても吸っても足りない。
暑くて苦しい、でもこの先に気持ちよいことが色々待っていることをハウツー知識で知っているから、耐えた。ひたすら耐えた。
謎のフォルムをして見方が分からない時計の針がスーッと進むにつれ「こんなに苦しいのにがんばってる、わたし」「精神的に強くなってる、わたし」と前向きに考え始めた。
最終的に、「わたしは最強」と思うに至った。自分が無敵な気がしてくるのだ。修行僧のように苦しみに耐えて悟りの境地に達したように感じた。
それか、単に暑さで頭がおかしくなったのか。

脈拍が爆風スランプのランナーくらいの速さでドクドク鳴り始めたので、水風呂へと移動する。一番水温の高い16度のものを選んだ。
水風呂が苦手な人は手首を水に浸からせなければよいと聞いていたので、ヤーーと軽く腕を振り上げた格好で水の中へ体を沈ませる。
「ひー」という声を上げながら冷たさに堪える。ひーひー言いながら手首もゆっくりと浸かる。以前は足首だけで無理!と断念したわたしが、全身を水に沈めることができた。だって今のわたしは最強だから。
しばらくするとだんだんぬるま湯に使っているように感じられてきた。「これが羽衣かぁ!」と感動した。体が保っていた熱が体の周りに層を作り、不思議と冷たく感じなくなる数分ができるのだ。ドラクエで船全体を泡が包み込むという幻のアイテムがある。わたしは、そのどこまでも海底へ潜っていける無敵の泡に包まれている気分だった。

再び冷たさを感じ始めたところで水風呂を出て椅子への写る。背もたれがついたプラスチックの椅子で、足置きも付属されていた。
全身を椅子に預けて目を閉じると頭の中がとくんとくんと鳴っているのが分かった。
「あぁ血液が送られている音がする、あぁ生きてるんだ」血が、細胞が、ひとつひとつドクドクと震えながら動いている。
その間に皮膚から湯気がほくほくと出続けていた。「わたしは石だ、壊れない石だ」と思った。
焼けた石は熱せられて冷やされても割れることはない。どんな環境でも形を変えずに耐えることができる。そんな存在になれた気がした。

それがいわゆる「ととのった」状態なのかは分からないが、今まで感じたことのない体験をした。自分の体と真っ向から向き合う、そんな時間だった。
洗い場で髪を泡で包みながら、新しい経験を一つ増やすことができた喜びを噛み締めていた。
これから死ぬまで、いくつの新しいことに挑戦できるか分からないし、今回みたいにうまくいったり感動を得られたりするかは分からない。
それでもわたしにはまだ可能性が残されているし、まだまだ時間はあると思えた。
何をするにも遅すぎるということはない、そんな風に前向きに考えられるようになったのはサウナのおかげかもしれない。

ほくほくとした気持ちで泡を洗い流すわたしの後ろを、脱衣所からすらっと背の高い40代の女性が出てきて、通り過ぎていった。
彼女は一目散に8度の水風呂へ直行した。
上には上がいる。ひー!

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