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フリーターと不登校は不自由だ。

一年以上も休職していると「明日早起きだ」ということに自由を感じる。
もちろん働いているときは「明日休みだ」が自由だ。

毎日が休みだと律せられない自分におぼれ、今日も起きられなかったと後悔して、なんとなく日が暮れていき、時間に支配され、太陽は自分が思うより速いスピードで沈み、むなしく一日を終える。

早起きはつらいが、起きてしまば朝日を仰ぎランチを楽しみ夕方疲れてご飯食べて夜眠る。

当たり前のようだけど、フリーター時期は時間空間に支配されながら生きていたのがまるで自分が支配しているかのような気分になる。

いつもは仕事に支配され、休みの日に時間を空間を自由に使え、自由だと思うのだけれど、ずっと休んでいると時間に空間に支配され、「個体」としての自分がなくなり外部に染み出し、スライムをもとの形に戻したいのにどんどん崩れるかたちを戻せないような不快感。

人は仕事や学校にしばられるこことで「スライム君」を固形にもどし、固形だからこそ一日を体験し、関わることができる。

休みの日はいっときのスライム君になり、自由を感じる。
個体から液体のようになり休む。

いっとき、だからだ。

永遠のスライム君、それは時間に、空間に溶け出し支配され身動きがとれないそれも奴隷のようなものだ。

不登校の子は学校に部活に遊びにと忙しい子に比べてある意味「時間がない」のだと気が付いた。

だって「スライム君のようにねろんと溶け出してしまった存在」は存在として外部と関われず、太陽の満ち引きを体験できず、ただ引きずりこまれているだけなんだもの。

つまりね、忙しいことは悪いことではないよ、ということ。

大澤真幸が「自由という名の牢獄」と言う本をだしていたけどまさにその通り。

フリーターと不登校はだれよりも縛られているのだ。
世界内存在として存在できないのだから。

働こう。学校は、行きたくなければいかなくていいけど、どっか行くとこ見つけよう。その方が最初は大変だけど結果自由なのだ。

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